寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2011年 05月 19日

想定外 ~福島原発事故~

今回の原子力発電所の事故は「想定外」の出来事だったそうだ。

しかし、ここで言う「想定」というのは、どうも「利益を損なわない範囲で、恣意的にある状況(自然災害等)を設定すること」という意味であったらしい。そのような意味は辞書に載っていないから、「想定」という言葉に私たちにとってこんな想定外の意味があったなんて知る由のないところだ。



原子力発電は必要だ、という言葉がいまだにあちこちで聞かれる。
必要だと言う人たちはきまって「現実的に考えるとやむを得ない」と言う。


私にはここが解せない。
「現実的」とはここで何を指しているのか。
全国の原子力発電を明日止めたら大変なことくらいわかっている。
止めたところで多量の放射性物質自体は残ってしまうことくらいわかっている。
まさかそんな当たり前のことを指して「現実的」と言っているのか。


むやみに「現実」を立てたがる人たちの「現実」こそ、仮想のものではないだろうか。
人は一見現実ぶった顔をした仮想に惹かれるものだ。
現実ぶった顔というのはきまって柔和な表情をしているのだ。
この世は住みやすいよ、とその顔は教えてくれるのだ。

彼らは真の現実の顔に耐えられるだろうか。
現実の顔というのはおぞましいものだ。その顔は柔和どころか、顔面から肉片を奪われた骸骨であったり、もはや意味をなさない何かの塊であったりするのだ。


「想定外」のことが起こったことに対して真摯に向き合う姿勢があるなら、自ずと対応は決まってくるはずだ。ここで言う真摯に向き合う、とは、現実の顔がどんなにおぞましいものであっても直視する、という対応のことだ。




メルトダウンに関する発表。文字通り事故の核心とも言えることがいまごろになって明らかになった。とてもおかしなことが起こっている。

私はこれまで、日本って国は、例えば食品の賞味期限だって、天気予報の台風警報だって、空港の管制システムだって、全て、あらゆる「想定」をした上で、念には念を入れて、万が一でも危険がないようなシステムを用意周到に構築していると思っていた。

しかし、今回の国の対応を見ていて、やはり自分の身は自分で守らなければならない場合があるのだ、という現実を、昭和50年代に生まれた平和ボケの私は、この歳になって初めて思い知ったところだ。例えば、被曝量の上限がいきなり20倍に跳ね上がったのが、あらゆる「想定」の上の判断だとは到底思えない。やはりここでも「想定」とは「利益を損なわない範囲で、恣意的に」行われたものであり、「想定外」の事態が避けられないのではないかと懸念せずにはいられない。

国の行政を担う人たちは、国の発表を信じ続けている人たちの命こそ守ることを使命としていただきたいと切に願うところだ。



もうひとつ感じるのが、「30㎞圏内」とか「福島」とか「東北」とかいう言葉で話をくくることの弊害。

言うまでもなく、自然界には20㎞や30㎞の同心円も県境も存在せず、放射能が福島県から宮城県に越境するための障壁はない。
しかし、実際にはこのくくりによってあらゆる人や物資が動いている。あらゆる人の判断やそれに伴う行動もそれに左右されている。やはりここでも個別の判断が求められているのだ。もし福島の人たちが避難したとして、隣接する宮城県白石市や七ヶ宿町の人たちがどうするかとなると、いまのところ多くの人が、「皆が移動しないなら私も移動しない」という状況である。そのような良識的多数派を救うことこそが、行政の使命であろう。


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by terakoyanet | 2011-05-19 03:28 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
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