「君の名は。」はなぜせつなくなるのか。

夏目漱石は、小説『虞美人草』に登場する甲野さんに次のように言わせています。


「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奧に捕えたるとき、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」


これは、人が「物」と言うときには、それはいつでもすでに言語化、象徴化されたあとの「物」でしかないのに、人はそれが実体の「物」でもあるかのように扱う、という洞察に基づいています。人が「物」を自明の「物」として観たその瞬間に、「空の不可思議」は永遠に過去のものとして葬り去られ、代わりに〈信=真〉が立つのです。そしてもともと「物」の場所に「空の不可思議」があったことも忘れてしまい、わたしたちは言語化、象徴化された世界を「現実の世界」として疑うことなく、そこでぬくぬくと生きていくこととなります。

これと似た洞察が見られたのが、映画「マトリックス」です。

平凡な日常の中にいた主人公が、ある日突然に見知らぬ人たちから「真実に目覚める」というピルを渡されます。そのピルを飲んだ主人公は、それまで現実と思ってきたもの全てが、コンピュータが作り出したヴァーチュアルな幻想に過ぎず、実際には人間は、コンピュータに神経を接続されたまま、水槽の中で眠らされてその幻想を夢の中で見ているに過ぎないことを理解します。こうして「真実」に目覚めた主人公は、夢見る人間たちを覚醒させるという目標のために、コンピュータウイルスのように回路に侵入することで、そのコンピュータの支配に闘いを挑むことになるのです。

コンピュータと闘う人間は、ヴァーチュアルな世界に対して距離を置き、その世界を象徴的なものに覆われた巨大なテキストとみなすことで、解釈によってはその世界は別の意味を持ち得るものだと考えています。一方で、コンピュータに繋げられて夢を見ている人間にとっては、「この世界」は絶対的なものとして存在しており、実在と意味(象徴)は疑いなくピタリと一致しています。彼らが「この世界」を絶対化し、その実在を信じて疑わないのに対し、「この世界」を相対化できる者だけが、現実の世界に目覚め、真実に触れる自由を得られるというのです。

この映画をSF的なものとして見ていた観客たちは、次第に気づき始めます。これは単なる奇想天外な物語ではなく、あまりに「現実的」な話であり、日常の中にいる私たち、「この世界」の実在を信じて疑わない私たちが、いままさに覚醒させられようとしているということに。

では、日常生活が一つの夢というテクストであり、それが意味を支配する魔法にかけられているようなものだとすれば、その魔法がとけたときに、私たちに何が見えるのでしょうか。マトリックスの中で描かれるのは、ヴァーチャルな世界を相対化し、そこから離れたとしても、そこで拠り所となる真の現実が立ち現れるわけではない、という困難です。「この世界」を現実そのものとして固く信じて疑わない態度そのものが、あらゆる幻想の実体だとすれば、「この世界」を相対化して覚醒すべき「別の世界」を目指すことは、新たな「この世界」を立ち上げるふるまいにすぎないのです。


このようなアポリアについて考察していくと、『君の名は。』がなぜせつないのか、という回答のひとつにたどり着きます。


「目覚めても忘れないように名前を書いておこう」
「君の名前は三葉」
「…大丈夫、覚えてる!」
「三葉、三葉…。三葉、みつは、みつは。名前はみつは!」
「君の名前は…!」
「………!」
「…お前は、誰だ?」
「…俺は、どうしてここに来た?」
「あいつに……あいつに逢うために来た!助けるために来た!生きていてほしかった!」
「誰だ?誰だ、誰だ、誰だ………?」
「大事な人、忘れちゃダメな人。忘れたくなかった人!」


『君の名は。』において、瀧は三葉のことを、三葉は瀧のことを、大切に思っていて、その名前を絶対に忘れたくない。でも忘れてしまう。

ここには、人間の根源的な悲しみがあります。
人は象徴という意味を支配する魔法の中で生きていて、その魔法が消えてしまっては、私とあなたとを繋ぐ回路を失ってしまうということです。象徴というのは、夢から醒めたらすぐに消えてしまうような脆弱なものなのに、それを失ってしまっては、私はどんなに思ってみても、私があなたに何かを届けるすべは何もなくなってしまうのです。そして、失ってしまった後では、何を失ってしまったかということさえも忘れてしまうのです。

「君の名は。」映画のタイトル自体となっているこの言葉は、意味作用のはかなさ、そしてそのはかないものに頼らざるをえない私たちの関係性そのもののはかなさを痛切に叫ぶ声そのものです。


世界がこれほどまでに醜い場所ならば、俺はこの寂しさだけを携えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけでもがき続けてみせる。ばらばらでも、もう二度と逢えなくても、俺はもがくのだ。納得なんて一生絶対にしてやるもんか、神様にけんかを売るような気持ちで、俺はひととき、強くつよくそう思う。自分が忘れたという現象そのものも、俺はもうすぐ忘れてしまう。だから、この感情一つだけを足場にして、俺は最後にもう一度だけ、大声で夜空に叫ぶ。
 「君の、名前は?」





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by terakoyanet | 2016-10-05 13:13 | 連載(読み物) | Trackback | Comments(0)