「見られている」から「見られていない」に。

先日、ある卒業生のお母さまとお話しする機会がありました。

その子(Y君)は中1の最後に転勤で福岡から首都圏に引っ越しをし、彼が大学生になって再びご家族で福岡に戻って来られました。

うちの子にとって、寺子屋で先生に見られている、見守られているというのがとても大きかったんです。

とお母さま。寺子屋でいっしょうけんめいに勉強して成績をグンと伸ばしたY君。
首都圏に引っ越しをし、寺子屋みたいな塾を見つけられなくて、、と大手の塾に通い始めたY君は、全然がんばれなくなり、塾をサボるようになってしまったそうです。

先生からいつも見られているから。ちゃんと当たり前に塾に行って、授業を一生懸命やって、宿題をちゃんとやってくるのは、先生との約束だから。そういう気持ちで寺子屋に通っていたY君。塾の環境が一変して、「見られている」が「見られていない」に変化し、急にがんばれなくなってしまったそうです。

見られていても、見られていなくても、自分のためと、与えられた環境のなかでベストを尽くせればいい。
でも、それが難しい子もいて、そういう子には、「見られている」という意識が途切れにくい、うちのような塾のほうがいいのだろうなと思います。

寺子屋の生徒が、特に本校の中学コースの生徒たちが「見られている」という意識を持ちやすいのは、指導者ががんばっているからとか、そういう曖昧な理由ではなくて、単に、私ひとりで授業のほとんど(中1授業の8割、中2授業の9割・中3授業の9割)を見ていて、国・数・社・理・英の全科目を教えているという、大きな塾ではありえない物理的な事情があります。科目別に違う先生だと「見られている」がどうしても分散するのですが、寺子屋の子たちにとっては「見られている」がどうしても私に集中しますから、その意識を持ちやすいのでしょう。ですから、「見られている」が必要な子たちが本校を離れると、どうしてもうまくいかないことがあるようです。

Y君は高校3年生になり、ようやく頑張り始めて無事に福岡の医療系の大学に進みました。
大人は子どもに「誰のためだと思っているの?あなたのための勉強よ。」「やらないと困るのはあなたよ。」と言いますが、「いま」を生きていて、「いま」が大切な子どもたちに将来のことを伝えるのは、実はとても難しいことです。「いま」を生きているのはどこまでも自然で、当り前のことですから。Y君も、これは「いま」の僕の問題だ、そういう自覚が生まれた時にはじめて頑張ることができたのでしょう。


「見られている」というのは、子どもたちの「いま」の意識に訴える力を持っています。
「いま」を生きる子どもたちと、「いま」ここできちんと関係をつくることからしか、子どもたちに何も伝えることはできない、そのことを肝に銘じて、これからの指導にあたっていきたいと思います。


*Y君とそのご家族に掲載の許可をいただいています。


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by terakoyanet | 2017-12-23 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)