夏目漱石『虞美人草』論(5)

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『虞美人草』においてその倫理を担うのは甲野さんです。甲野さんは唯一の理解者である糸子にこう言います。

「動くと変わります。動いてはいけない」

これは実は極めて倫理的な要請です。漱石がたびたび用いる「動」と「静」という言葉は、老子の哲学からその意を汲み出したとみてよいと考えます。

彼は文科大学時代執筆の哲学論文『老子の哲学』において、「動」を「萬物之母故有名(ばんぶつのははゆえにゆうめい)…故常有欲觀其檄(ゆえにつねにゆうよくにてそのきょうをみる)」と言い、「静」を「平等故無名(びょうどうゆえむめい)…故常無欲觀其妙(ゆえにつねにむよくにてそのみょうをみる)」と言います。このことはかみ砕かれて次のように説明されます。

この玄*を視るに二様あり。一はその静なる所を見、一はその動くところを見る。
もとより絶対なればその中には善悪もなく長短もなく前後もなし。
難易相成すこともなければ高下相傾くることもなく、感情上よりいうも智性上よりいうも一切の性質を有せず。
去るがゆえに天地の始め万物の母にして混々洋々名づくるゆえんを知らざれば無名という。
しかし眼睛を一転して他面よりこれをうかがうときは天地の始めゆえ天地を生じ万物の母なるゆえ万物を孕む。
そのひとたび分れて相対となるや行いに善悪を生じ美醜を具え大小高下幾多の性質属性雑然として出現し来る。
この点より見るときは万物の母にして有名といわざるべからず。
ゆえにその無名の側面をうかがわんとならば常に無欲にして相対の境を解脱し(能うべくんば)己をもって玄中に没却しおわらざるべからず。
またその有名の側面を知らんと思わば常に有欲をもってその大玄より流出して集散離合する事物の終わりを見るべし。


*注
玄・・・「無」としての自然世界。しかし漱石は「玄」とはいわゆる「虚無真空」の境地などを表すものではなく、「無」とは「名づくべきの名なき故に無というのみ」と言っています。



「天地の始め万物の母」を「相対」して「視る」ときにそれは善悪、美醜、大小といった「性質属性」としてあらわれる。わたしたちが事物を「相対」して「視る」ときにはじめて、事物は何らかの「意味」を持って私たちの前に迫ってくる。このことを漱石は「動」と言っています。

一方で、「ゆえにその無名の側面を窺わんとならば常に無欲にして相対の境を解脱し(能うべくんば)己をもって玄中に没却しおわらざるべからず」と言っています。

そこには、「常に無欲にして相対の境を解脱し」、しかも己自身を玄(=自然世界)中に「没却」してしまわないという態度こそが「静」であり、それこそが真に倫理的な態度ではないだろうかという漱石の考えが現れています。

おのれ自身を玄中に没却しない、ということは、漱石が言う「静」とは宗教上の「悟り」や「天に身を任せる」といった神懸かった境地とは無縁です。

甲野さんは言います。

「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、お手本はやっぱり人間にあるのさ。」

また『草枕』の画工は言います。

「わが感じは外から来たのではない、たとひ来たとしても、わが視界に横たわる、一定の景物でないから、これが原因だと指をあげて明らかに人に示す訳に行かぬ。あるものはただ心持ちである」

ここでわかるのは、漱石は「自然」やその営み、または目の前の事物に自分の意識の根拠を置く考えを退け、ただ、自分の〈心持ち〉があるだけだとあくまでいい続けているということです。

自分の根拠を目の前の事物に置くことはある意味宗教的です。
目の前の事物があるから私の存在がある、目の前の事物を認識できるから私は生きている、というのは、目の前の事物の存在に対する「信仰」が必要であり、それ自体が宗教的なはたらきと言えると思います。 (6に続く)

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霧島神宮の神木
鹿児島県霧島市  August 2008
3年生夏合宿


毎年霧島神宮では合格祈願をします。
春に卒業した卒業生と保護者様から「お礼参りに行きましたー!」というお話をうかがい、うれしく思いました。今年も霧島神宮行きます!
by terakoyanet | 2008-07-02 14:00 | 連載(読み物) | Trackback | Comments(0)