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2017年 09月 12日 ( 1 )


2017年 09月 12日

メキシコのゴシック聖堂①トラコルーラにある聖母の被昇天教会

若いころより旅が楽しくなった。そう感じるのは、旅の焦点が絞られてくるからではないでしょうか。
自分の興味の対象を心の深いところで理解して、それを羅針盤にして動いてみる。そうやって新しいものに出会うという楽しみ方は、年を重ねた人のほうがきっとうまくいくのでしょう。

私の今回の旅は、工藝風向さんでメキシコのブリキ絵に出合い、小野一郎氏(尾形一郎氏)の「極彩色メキシコ巡礼」(晶文社)を読む機会に恵まれなかったら、実現していたかどうかは疑わしいものです。そうやって、自分が出合った人やものに導かれ、自分がカトリックの家に育ったという過去の境遇と、現在の出合いの経験とが撹乱し、それによって生じた熱量に導かれた形で実現したのが、今回のメキシコ訪問でした。


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聖母の被昇天教会にある聖クリスト礼拝堂



予備知識を携えて出かけたはずなのに、メキシコのゴシック聖堂に圧倒され、魅了される旅になりました。
メキシコの聖堂は「祈り」の空間そのもので、その祈りの深さに、度々心を揺さぶられることになりました。

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受難のモチーフが多用された聖像たちはグロテスクですらあります。
しかし、その聖像たちを見たときに、私はこの祈りの強度をいつか確かに感じたことがある、そう気づかされました。どうしようもなく深い親近性が心の奥底からふつふつと湧き出てきたことを忘れることができません。

カトリックの数ある教えの中で、メキシコのこの地の人たちの心を捉えたのは、やはりキリストの受難です。
命を賭して人間に救いをもたらしたイエスの苦難は、苦しめば苦しむほど霊的な存在になることができるというメッセージを人々に与えました。切り落とされた自分の首を持つ聖人像は、自己犠牲の最たる姿を表すものでしょう。

カトリックは、北アメリカの古代信仰を否定する形で受容されたのではなく、古代信仰の分厚い地層の上に積みあげられる形で、この地で受け入れられました。カトリックの教会堂はしばしば古代遺跡の基礎の石盤の上に建てられているし、それらの遺跡の石がそのまま教会堂の建築に利用されています。

聖堂の血なまぐさい聖像たちは、アステカ時代の自己犠牲や生贄のデモンストレーションの残滓であり、同時に、カトリックと植民地支配を受容したこの地の人々の苦難をイエスの受難に託した姿そのものです。それはあまりに苛烈な表現であり、本来、祈りというものがいかに凄絶なものであるかということを、いま一度思い知らされるものです。
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しかし、この聖堂から祈りの苛烈さだけを抽出して読み取るのは、人々の暮らしを見る目をむしろ誤らせてしまうことになるでしょう。メキシコのブリキ絵を見ていると、ささやかな日々の暮らしの中に祈りがあること、神への信仰と周囲への愛情が穏やか結びついていることを感じさせ、温かい気持ちになります。
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今回ご紹介した聖堂があるトルコルーラは、オアハカ市から車で50分ほど東に進んだところにある町で、日曜日には大きなマーケットが開かれることでも知られています。
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メキシコのゴシック聖堂の記事、旅の記憶が消えていかないうちに、改めて書きたいと思います。



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by terakoyanet | 2017-09-12 10:53 | 好きな場所 | Trackback | Comments(0)