寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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カテゴリ:寺子屋エッセイ(読み物)( 148 )


2017年 11月 17日

大人の悪口を言う子どもたち

昨日も子どもたちが自分の親の悪口を言い立てていました。
「うちの親、まじで性格悪い。」
「うちの親、まじひげ親父。」
「うちの親は横でテレビ見すぎ。」
「うちの親は、要求が細かい。」
「うちの親は、うるさい。無理な要求するし、話が長い。」
「ていうか、親っていうか、俺も性格悪い。」
ある子が言うと、それに刺激されるように他の子が言い出すので、私は面白いなあと思って聞き流しています。

子どもたちは学校の先生の悪口も毎日のようにしゃべっているのですが、度が過ぎているなと思う場合、注意することもあります。それひどすぎるよね、と。

でも、子どもが親の悪口を言うときというのは、むしろそうやって親への愛着を示している子が多くて、なんだか安心します。

子どもが大人の悪口を言うというのは健全なこと。そう思います。
悪口を言われるのは私だってイヤですが、でも、子どもが大人の悪口を言うというのは、子どもが大人という壁にぶち当たっているということであり、それは必要だと思うのです。

だから、親は子どもに悪口を言われるくらいでいいんじゃないかと思います。
まだ小学生の子どもから悪口を言われる親というのは心配になります(この場合、親子関係に問題があることがあります)が、中高生の子どもが親の悪口を言うとき、その子は親からちゃんと自立しようとしているということの証左であることが多いものです。

逆に、聞き分けのよい子というのは案外心配なものです。
子どもは思春期において、大人への共感、そして疑問や反発を通して、人格と言われるものをつくっていきます。そうやって、自分の思考と大人の思考との(いまはやりの言葉で言えば)アウフヘーベンによって、社会性や善悪の正体、自らの倫理観を深いところまで掘り下げ、親とは別の場所で思考できる人間が育っていくのです。

だから、周りの親や大人に対する悪口を言わない子は心配なところがあります。
悪口を言わないというのが、単純にその子の倫理観に根差すものと感じることがあります。
そうであれば、あまり心配がないのですが、中には、その子の思考が親のコントロール下にあるから、この子は親の悪口を言わないんだなと感じることがあります。

これはお母さんが魅力的なエネルギーを発散しているタイプの子に多いのですが、その子はいつもどこかで母親という太陽のような存在に対して、全面的な承認と称賛を求められているのでしょう。
そういう関係というは母親も子どももほとんど無意識なのですが、そういう親子のコミュニケーションの円環の中にいる子というのは、まず親の悪口を言うことはありません。その子は、親というのは決して傷つけてはならないものであることを身をもって知っていますから。このような子は、コントロール下に置かれたまま中高時代をそのままやり過ごすことが多いのですが、いよいよ自立すべき成人前後になったときに、いろいろと親との関係に悩まされることがあるようで、私もそういった卒業生たちから話を聞くことがあります。

このことについて話し始めると長くなりますのでここまでにしますが、とにかく、子どもが親の悪口を言っているときというのは、案外ほほえましいことが多いです。(それに比べ、学校の先生の悪口は全然ほほえましくないです。子どもたちも大変ですが、学校の先生もほんとうに大変だと思います。)たまに親のことで本当に困っている子が相談をしてきますが、そういう子というのは、悪口を言う余裕もない、悩み抜いている子です。


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by terakoyanet | 2017-11-17 15:47 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 18日

成功の裏返し

夏に教室に遊びに来た健二くん(仮名)と話しました。
健二くんは大学3年生。いまは京都の大学に通っています。


健二くんは小学校に上がる少し前からお母さんとそして3つ上の兄と3人暮らしでした。
大学に入り、家族と離れて一人暮らしになって気づいたことがいろいろとあるそうです。

最近の若い子たちの中には、大学時代に急激な成熟を遂げる子たちがいます。その数(割合)は以前より多い気がします。
現代の情報が氾濫する状況は負の面として語られがちですが、情報を読み取る力、取捨できる力がある子は、数ある情報から自分が拠り所とすることができるような思考を的確に捉えます。そのときの道具として、インターネットなどの即席の情報が明らかに寄与していると感じることが多々あるのです。

「僕の母って、いつも自分が正しい存在であることで輝いている人で、僕はずっとこの人の機嫌取りをしてきたんだなって離れてみて初めて気づいたんです。」

私の目には、健二くんのお母さんは「あなたの人生なんだから、あなたの好きなようにしなさいっ」と子どもを手放すことに自覚的な方と映っていました。

「いつも、ふとしたときに、これは母が怒るだろうな、とか、これは母が喜んでくれる、とか、全く母の目に届かないところで動いているのに、そうやって自分の行動を母の目でチェックしてしまうんです。これはもう癖みたいなもので、無意識にやっちゃうんです。これは、母と離れて初めて気づいたことです。僕の母は基本的に、自分の人生に対してあなた自身が責任を持ちなさい、というスタンスで、僕自身、母といい距離感だと自分で思っていたところがあったんですけど、でも、母が長いこと僕に伝えてきたことには、かなりのバイアスがかかっていたことに気づいたんです。この前、インタビューかなんかで養老孟司さんが、成功体験は危ない、という話をしているのをたまたま読んで。」

私は、彼のお母さんがかつて「私は健二がどこの学校に行ってもいいと思っているけど、でも成功体験がないからそれを経験させたい」と話していたのを思い出しました。それは高校入試の直前の面談の際でした。私の方も、彼を2年以上指導してきて、彼が根っこの部分で学習に対する自信を持っていないこと、頑張る姿勢を見せているときでさえどこか受け身の姿勢から抜け出すことができないことに対して、どうにか変化が生まれれば、と思っていました。だから、お母さんがおっしゃっていること、彼に根っこの部分で自信を持ってほしいという気持ちが理解できました。しかし一方で、このタイミングで彼の目の前でそれを言うのは彼にとってプレッシャーになるのではないかな、そうやって心配したあのときのこと ーすでに6年も前のことになるのですがー をはっきりと思い出していました。

「成功の裏返しは失敗じゃないですか。僕はずっと失敗に囚われてきたんです。僕はいつの間にか母親が用意していた成功と失敗の二元論の中で生きていて、単に目の前にあるものを自然に受け取るという単純なことができていなかったと、養老さんの話を読んで気づきました。成功体験というのは結果じゃないですか。結果的に成功したことが自信に繋がるということであって、成功体験を求めることから始めると、初めからその成功は損なわれていて、その先には喪失しかないんです。僕は単に事実を事実のままに受け取ればよかったのに、それを成功や失敗として受け取り、それで勝手に傷ついてきたことに気づかされました。これが僕が母から知らず知らずのうちに受け取っていたバイアスのひとつです。」

そう話す彼の頬は紅潮していました。成功体験というのは、高度経済成長やバブルの記憶が残る人たちによる特殊な思考にすぎない、彼はそう断じました。この点についてはもっと根が深いものかもしれない、私はそんな気がしますが、確かに、成功体験を求めることは、どうしても「成功しなければ」というミッションを自身に科すことになり、それはその人の人生をがんじがらめにしてしまうことがある、彼が中学時代に、自信がなくて、いつも受け身に見えていたのも、成功体験にとらわれていたからもしれない、彼の話を聞きながら、そんなことを考えました。

こうやって、生徒たち、卒業生たちから学ぶことは、たくさんあります。


*プライバシーを配慮しています。そのため、以上の話はそのまま事実ではなく、創作を含んでいます。


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by terakoyanet | 2017-10-18 11:28 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 11日

新しい旅のすすめ その2

テクノロジーの進歩によって私たちの行動の選択様式が変容を遂げたいま、旅の方法にも大きな変化が生まれています。Google MapやGPSに依存した新しい旅のかたちは、そんなのは本来の旅じゃないと揶揄されがちですが、しかし、新しい技術を自分ができる範囲で存分に使いこなしながら、新しい旅のかたちを発見していくというのは、存外に楽しいものです。

昨年オスロに行ったとき、私はこの街について事前に何も下調べをしていなくて、ムンクの絵とオペラハウスさえ見たら、あとはのんびりと近くの低山を歩きたいと思いました。そのときに活用したのはグーグルマップです。
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どんな湖かわからないけれど、とりあえず地下鉄で〇〇駅まで行けば、徒歩10分で湖に着くらしい。
そしてその湖とそこから西に5kmのこの湖の間に細い道がある。これ、トレッキング用の道じゃないかな。
さらにその湖からは登山道っぽい道がある…。

何の確証もない状況で、グーグルマップだけを頼りに歩き進めていくと、ピカピカに磨き上げたような鏡のような透明度の湖があったり、ちゃんと整備された道が確かにそこにあって人が楽しげに歩いていたりして、初めての場所なだけに緊張感がありつつも、それがいやでもほぐれてしまう瞬間というのがあって、それがとてもかけがえのないものに感じられるのです。
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この日は結局、地下鉄の料金を払っただけで、そのあとはグーグルマップを頼りにオスロ市内を一望する低山のてっぺんにたどり着いて、ガイドブックがなくても存分に楽しい時間を過ごすことができました。
(そのあと地球の歩き方やロンリープラネットなどのガイドブックを見ても、この美しい低山のことは全く載っていなくて、まさにグーグルマップが運んでくれた縁なのだと感じました。)



先月、アメリカとメキシコを訪れたときは、Uberをさかんに活用しました。
Uberは、海外を訪問する人たちにとっては革命的なアプリです。
乗車場所、降車場所を予め指定できるし、支払いはすべてクレジット決算だから、これまでのタクシー利用に比べて圧倒的にストレスフリーです。
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海外に行くときには身の安全の担保が課題になると思うのですが(特に女性は)その意味でもUberはあまりに革命的発明です。メキシコはこれまでタクシーは危険だと言われ続けていました(もともと言われすぎだったと思います)が、長年、国が総がかりで対策を講じても達しえなかった安全性への懸念を、Uberというひとつのアプリが、経済や治安の問題をある意味で飛び越える形でひとつの解決の道しるべを示したということは、手ばなしですごいことだと思います。

ただし、Uberが万全というわけではありません。乗車場所が大きな施設の場合には、待ち合わせがうまくいかなくなるときもありますし、キャンセル料のリスク等もあります。また、小さな町にはドライバーがいないので、そこまで行けても帰れないなんてこともあります。またネットが不安定な場所、繋がらない場所では、Uber自体が使えなくなるので、それに頼ろうとしていた場合、途方に暮れることもあるでしょう。
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メキシコシティではタクシーは一切使わずにUberに頼りきり


新しいテクノロジーによってどんどん便利になり、新しい旅の可能性が広がっていきます。でも一方で、どれほどに便利になろうとそれで万全ということには決してなりません。自分がいる場所の環境を思い通りパーフェクトにコントロールすることなんて土台無理なことですし、何よりも、変化しやすい自分自身の身体そのものに万全を期待することができないのです。しかし、だからこそ私たちはいつまでも旅を楽しむことができます。どれほどに新しいテクノロジーにより、旅の可能性が広がろうとも、一寸先の未来は誰も手中にできない。だからこれからも旅は続きます。


今日は旅の達人、石川直樹さんがとらきつねに来訪します。
石川さんは、新しい道具を使うことに躊躇がない一方で、その身ひとつで自らの知恵自体を道具に変えて世界を横断してきた、柔らかい身体=思考の持ち主。とにかく楽しみです。



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by terakoyanet | 2017-10-11 09:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 02日

一人ひとりが大切な思いをのせて高校に通っている。

教師暴行動画がネットやテレビニュースに取り上げられたことで、各SNSからGoogle Mapのコメント欄に至るまで、どこもかしこも加害生徒や当該高校に対する誹謗中傷で溢れています。

生徒たちに対する影響が最も大きいと思われるTwitter上もひどい状況で、その行為自体に対する批判ならともかく、そこにあるのは、単なる他人を貶める快楽に溺れる狂乱ばかりで、子どもたちへの影響を懸念しています。

高校の名前を聞いて私はすぐに、中3の後半でようやく成績を伸ばし、大学に進学する熱い希望をもって当該高校の普通科の門をくぐっていった彼のことを思い出しました。そして、私もお母さんも他にも道はあるんだよ、大学からでも目指せるよ、と話したのに、母と同じ看護師になりたい、早く看護の勉強をしたいと、同高校の看護科に進学した彼女の顔を思い浮かべました。

本人も家族も大切な思いを持って、それぞれの高校に通っているんです。
その思いはいつだって不変で屈強なものではなく、すぐにたなびいてしまう脆弱なものかもしれないけれど、
でも、日々いろんなことを考えながら、迷いながらも、現在の自分と将来の自分を少しでも頼もしいものにするために、本人は高校に通っているし、家族はそんな本人を大切に見守っているんです。高校の先生だって、誇りを持って毎日の仕事に取り組んでいるんです。

それなのに、ネット上は、あまりに無配慮で傲慢なおぞましい言葉で溢れています。

「笑ってるクラスの奴らも同罪」 「暴行されてる先生をヘラヘラ笑って雑魚扱いしている周りの生徒達も同罪」というコメントにたくさんの同意がなされていますが、このコメントは正論のように見えて、その実は生徒達を貶めたいだけの乱暴な言葉です。こういう現場でクラスのみんな(と言ってもきっと全員ではない)が「笑って」しまう問題というのは、そんなに簡単なことじゃないし、少なくとも「同罪」ではないんです。こういうときに、正論を装って貶めることを言う方がよっぽど悪質です。

Twitterなどのコメントを見ている生徒たちには、決してそのような差別と中傷に加担しないでほしいし、そこで書かれていることを真に受けないでほしいのです。
どの学校だっていろんな生徒といろんな先生がいる、それは当たり前のことですが、でも決して忘れてはならない大切な事実です。

最後に、当該高校の生徒たち、悔しい思いをしている人もたくさんいるかもしれませんが、周囲が漏らしている不安をあまり真に受けすぎないで。
社会に出たら、学校というよりは、あなた自身が見られるんだから、そのことを頭と心に携えて、いまを大切に日々の生活を送ってください。


ーーーー

先週金曜日の地理B高3補講で、問題の中に、かつて世界4位の湖沼面積を誇った中央アジアのアラル海が出てきたときに、飛行機から撮った、干上がりつつあるアラル海の写真があるよ、と生徒たちに言ったのに関わらず、その場では見せてあげられなかったので、よく撮れたものではありませんが、こちらに載せておきます。
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by terakoyanet | 2017-10-02 14:34 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 04日

弱者を他者に仕立てること

昨年、ノルウェーのオスロを訪れたときに驚いたのは、路上生活者の数の多さである。街中を歩いていると、夏でもひんやりする空気の中に、表情に乏しい大柄な男性たちが座っている。初乗り550円の地下鉄の改札を多くの人が次々とくぐり抜けるすぐ隣に彼らが佇んでいる姿を見たとき、世界最富裕国ノルウェーという無意識の期待感に冷や水を浴びせらた気分になった。しかし、ノルウェーと言えば、世界に名だたる社会福祉先進国である。さらに、一人当たりのGDPは日本の2倍を超える数字であり(これは、バブル期に一人当たりのGDPで世界トップ3に入った記憶を残している人たちにとってはいささか衝撃的な数字である)世界最富裕国という称号に、数字上の偽りはない。

日本では10年前、20年前より、路上で生活している人たちを見ることが随分少なくなった。あのとき地下鉄にいたおじさん、おばさんたちはいまどうしているんだろうと考える。日本の路上生活者は統計上でも減少しているそうだ。それには支援団体の努力のおかげもあるだろう。しかし、日本の高齢化と貧困化はかつてより悪化しているのではないか。貧困する社会の中で、路上生活者の数を減らすことに一体何の意味があるのか。私は世界最富裕国の首都を歩きながら考えた。

私はいまメキシコの世界遺産の街、サンミゲル・デ・アジェンデにいる。メキシコで最も美しいと言われる、スペインのコロニアル建築に埋めつくされたこの街にも、路上で生活する人たちをあちらこちらで見かける。
昨日の夕方は、ある老夫婦らしき二人が路上に座っていた。擦り切れたカセットテープのような輪郭に乏しい音楽が小さなラジカセから流れていて、老父は弦が3本しかない小さなギターをその音楽に合わせるように1本ずつ弾いており、老婆の方は、その隣で左手の肘から上だけを動かしてマラカスを鳴らしながら、右手にはお金を入れてもらうための小皿を抱えていた。演奏には何の技巧もなく、そこには貧しさだけがあるように見えた。

しかし、貧しい二人は、そのとき確かに街に包まれていた。多幸感に包まれるその街に、彼らが存在していることに矛盾はなかった。彼らは間違いなくそこにいてもよい存在であり、だからこそ彼らの拙い演奏は、街の音に心地よく紛れていた。

日本で路上生活者の問題を語るときに余所余所しさがつきまとうのは、彼らがはじめから私たちの仲間ではないからだ。弱者ははじめから存在を否定されていて、その否定自体は省みられることなしに、それを解決すること、抹殺することに力が傾注されている。ユニバーサルデザインという言葉が踊る中で、まん中に手すりをつけるベンチがたちまちに広がる世の中の本体、そして、弱者を他者に仕立てようとする自分自身の本性について、深く考えさせられる滞在になりました。


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by terakoyanet | 2017-09-04 15:20 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 03日

子どもに大声を禁じること。


ふだん、中2の女の子たちは、勉強に対して真面目なのに、声が大きい子が多くて、半ば冗談で、でもときにはかなり本気で、うるさい〜!と注意されます。

休憩時間はともかく、授業中は、静かにしないと授業が成り立たなくなるし、そのことで困るどころか、悩んだり不安になったりする子さえいるから許されないこと、そのことは子どもたちといつも共有しています。しかし、うるさい子どもの存在自体に私がどうしても否定的になれないのは、子どもたちが常日頃、いかに抑圧された環境にいるかということを考えざるをえないからです。

子どもが静かにしていること、これは本来は決して自然なことではないです。このことを大人は忘れがちです。静かにできるのが大人になること、人の迷惑を考えることが自立することに繋がる、そう教える前に、大人は、その思考自体が任意に作られたものであるということを忘れてはならない気がするのです。

中3の宮崎合宿に行く前のオリエンテーションの際に、私は毎年子どもたちに「夜、外で叫んでも大丈夫だよ。」と控えめに声をかけます。合宿所の周囲は、夜には人っ子ひとりもいない公共施設があるだけで、民家も1軒もない環境です。この前はある子が、地行浜で線香花火をしていたら警官に叱られたと嘆いていましたが、合宿に参加した子どもたちは、1日9時間の精いっぱいの学習を終えて、破裂音が鳴る花火に興じ、大声で笑い合っていて、本当に楽しそうでした。

日頃はうるさくすることがないある男子が、花火の途中に「先生、叫んでいいですか?」と許可を求めに来て、いいよと言うと、あるユーチューバーのよくわからない言葉を叫びました。すると遠くにいた男子がそれに呼応してさらにわけのわからない言葉で返していて、あ、これは犬の遠吠えと同じだと、にわかに感動しました。

昨今の保育園問題もそうですが、子どもに対して過度に静粛と成熟を求めるのは大人の悪だと私は思います。このことについて、大人どうしの共感を広げていかなくてはと思います。


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by terakoyanet | 2017-09-03 11:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

出会い方

出会い方ってあるでしょう。
その人の醜いところとか、嫌なところばかり見えることがあるでしょう。

でも、それって、出会い方が違っただけで、180度、違う見方になっていたかもしれません。
その人に感動して、大好きになっていたかもしれません。

だから、私は、自分がその人のことを、ひとつの見方しかできていないということをいつも考えるようにしようと思います。決めつけないようにしようと思います。

逆に、私自身、他の人にひとつの色に塗られてしまった、負の烙印を押されてしまったと感じることがあります。

でも、それだって、単に出会い方が悪かったんだと思えば、自分を殊更に否定せずに済みます。
出会い方で決まっているだけと思えば少し楽になります。

クラスで居場所がなくなる子がいます。
会社で仕事ができないと指をさされ、孤独になる人がいます。

でもそれだって、単に出会い方の問題です。
だから、あなたの尊厳は、あなた自身で、大切に守ってください。
そして、人を決めつけて、その尊厳を蝕まないでください。
自分自身の弱さと醜さは、決して他人に暴かれるものではなく、いつも自分自身の内なる課題であるべきです。


これは先月、ある高校生の女の子とお互いにぽつぽつと言葉を繋いでいたときに出てきた話です。




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by terakoyanet | 2017-07-13 00:30 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 12日

ささやかな共感。

昨日、いつもはあまり話しかけてくることのない、ある中学生の男の子が私のそばにやってきて

「先生の出身、朝倉高校なんですね。僕のおばあちゃんも朝倉高校出身なんです。」

少し恥ずかしそうに、そう話しかけてきました。

私は思わず

「おばあちゃん、大丈夫だったの?」

と尋ねました。家の状況はともかくも、ご家族は皆ご無事とのこと。

「ああ、よかった。」

私が深く息を吐きながらにっこりすると、彼もにっこり微笑みました。




塾の授業の休憩中の、わずかな時間に生じた何でもない会話です。

でも、彼の心も、彼のご家族の心も、そして私の心も、今回の水害のあまりの状況に心を揺さぶられていて、

そのふるえを思いがけず共感することができた瞬間というのは、なんとも言えないこみ上げるようなありがたさがあるものです。





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by terakoyanet | 2017-07-12 18:18 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 19日

テスト前に勉強をしないのは「やる気」の問題ではない。

1学期期末考査対策真っ只中の子どもたち。
加速度を増して学習に没頭している子がいる一方で、頑張っているみんなを横目で見ながらあまり何もやっていないように見える子もいます。

大切なテストの前に何もやっていない子を見ると、ご家族も心配になったり焦ったりすることと思います。

しかし、テスト前になってもなかなか机について勉強できない子どもたちと話していて、最近つくづくと思うことは、彼らは必ずしも「やる気」がないわけではないということです。彼らは勉強をやっている子と同程度に「勉強やったほうがいいよね」と思っているけれど、それが行動に移すことができていません。これは実は習慣の問題なんです。勉強の習慣がある子は、やろうと思ったらすぐに実行できます。でも、習慣がない子たちは、ある子たちと同程度の「やる気」では行動に移すことができないんです。

だから、習慣がない子たちに「あなたはやる気がない」と叱責してもなかなかうまくいきません。
他の子と同程度に「やる気」があったかもしれないのに、「やる気」自体を否定されて、むしろ動けなくなるかもしれません。

習慣というのは数日でつくものではありません。
だから、この子はこういうふうに育ったのねーと見守るしかないところがあります。

塾は、習慣をつけるきっかけをつくる場所だと心得て、子どもたちにあらゆる働きかけを試みていきたいと思います。


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by terakoyanet | 2017-06-19 11:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 19日

東浩紀さんのAERAの記事に対する評判について。

東浩紀さんのAERAの記事が一部の人たちの間ですこぶる評判が悪いようだ。


「原発は倫理に反している。これは必ずしも即時全廃を意味しない。悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある。」


悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある、なんて書くと、反原発派の人たちが怒るのも当然である。もうなんだか開き直ってしまっているようにも読めるこの文章は、予想通りと言えるが、安直すぎるという批判が多く寄せられているようだ。(しかも私が敬愛する人たちからも。)


しかし、私個人としては、東さんは至極ふつうのことを言っているようにしか読めない。

彼がこの文章で言わんとすることの主題は、そもそも原発の是非ではない。彼は単に、倫理に反しているということと、それを現実的に抑え込むということとは別の話であり、その間には飛躍があるのだという当然のことを言っているにすぎない。


今回、東さんが受けている批判は、実はこれまでの歴史の中で延々と繰り返されてきた、哲学者が甘受する誹謗と同じ類いのものであり、もはや古典的とさえ呼べる図式がそこにはある。それは例えばかつて夏目漱石が、余裕派と呼ばれたり、ポストコロニアル批評家たちに「植民地主義に無抵抗な作家」と揶揄されたりしたときと同じ誤解/誤読である。


夏目漱石が実際の政治を語らなかったのは、漱石の言葉を借りれば、それが「第一義の問題」ではないからだ。第一義の問題から離れたとき、人は不遜になり、嘘をつき、自分の傲慢さに無頓着になる。漱石の批判精神は、初期から後期の作品に至るまでその認識で透徹されている。いかに倫理的に政治を語ることが難しいか、そのことを漱石は認識していた。漱石は植民地主義に無頓着でも無抵抗でもなく、単にそれを語ることを自らに禁じたのである。自らの口で政治を語る人たちは、それがいかに正しい意見であっても、いや、それが正しいからこそ、その語りが不穏なものを呼び寄せることに気づかないのだろうか。政治を正しく語ることは、決して倫理などではない。


哲学者というのは「現実の問題」というのが存在すると疑わない人たちにとっては(それがまさかでっちあげられたものだとは信じたくもない人たちにとっては)いつも優柔不断な人である。何の実効性のある意見も持たないような「役立たず」で「自己満足」な「遊民」に見えるらしい。

彼らには哲学者たちが「現実の問題」を語る前に、「そもそも」の場所で踏ん張っているのが一向に見えない。(この哲学者たちのどうしようもない「踏ん張り」の現場を見たいなら、漱石の『虞美人草』に出てくる「甲野さん」の描写に括目してほしい。) 


東浩紀は良くも悪くも「哲学者」である。この記事の中でも基本的には倫理について語っているだけで、「現実の問題」を語ってなどいない。でも、原発という「超」がつくほどの現実味を帯びた話の中で倫理を語ってしまうと、我慢ができなくなって「現実的」に怒る人たちが出るのは当然である。


漱石は「現実の問題」を語りすぎる人たちを「動きすぎる」と制した。「動く」ことは「罪悪」だと言った。私が思うに、哲学者というのは「動く」という「罪悪」を知っている人たちのことである。でも、そういう人は軟弱に見える。軟弱で隙があるように見えるから、根拠もなく馬鹿にされる。振る舞いそのものが扱き下ろされる。その点で、東さんも今回、一部の人たちからたやすく馬鹿にされすぎているようである。(ちなみに私が今回書いていることは、東氏が漱石ほどに優れているとかそういう話では全くない。) 

しかし、繰り返し言えば、これはいままでずっと哲学者が人として真っ当に扱われず、鼻で笑われてきた歴史の繰り返しにすぎない。



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by terakoyanet | 2017-06-19 11:02 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)