寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2017年 06月 05日

海外とリスク

この数日、以下の記事へのアクセスが突然大幅に伸びました。

理由ははっきりしていて、フィリピンのブスアンガ島で日本人2人が行方不明になった事件が起こり、ブスアンガ島、コロン島などで検索した人たちの多くがこのブログに辿り着いたからです。

ブスアンガ島に行ったことのある人は日本ではまだ少ないようで、テレビ朝日さんの取材と画像提供に応じました美しい思い出の場所の写真が、惨たらしい事件の報道に使われることには非常に苦しい気持ちがあります。亡くなられた方たちのご冥福をお祈りいたします。

それにしても、現地のことを知ることも調べることもなく、自己責任という言葉で被害者を貶める人たちの無知と傲慢は目に余るものがあります。

海外でたくさんのテロや事件が起こっているのは確かです。でも、「海外は危ない」というふうに、安直に全体を一緒くたにして語ることはしたくありません。

海外に行く多くの人たちは、渡航先の安全について十分に調べた後に出かけています。
そんなことは当たり前です。だって自分や大切な家族の身体は絶対に守られなければならないのですから。

それでも海外に行くのは危機意識が足りないという人がいるのなら、その人は家から一歩も出るなと言うことと同じです。私たちは海外に行くことと同等のリスクは常日頃犯しています。車に乗ること、高速道路を走ることは、そのわかりやすい例のひとつです。

車に乗るのはしかたがないけど、海外に行くのはその人の趣味だから話が違うという人もいるようです。その人は趣味の楽しみを知らないか、または、単に趣味を楽しむ人を妬んでいるのでしょう。楽しむこととリスクを背負うことは隣り合わせであることは多いけれど、リスクがあることを全て避けて生きるというのは、人生を偏狭にすることとしか私には思えません。





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by terakoyanet | 2017-06-05 11:53 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2015年 09月 14日

本日、めんたいワイドのジモトリコにとらきつねが登場します。

とらきつねとブルーリバーと私が登場するめんたいワイド、FBSで本日15:48からです。
唐人町スパイスや、中3の女の子2人も出ます。

私は気が弱いので見ません。
見た方、ぜひ耳障りのよい感想だけ聞かせてください!

http://ameblo.jp/blue-rv/entry-12066083186.html?frm_id=v.jpameblo



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by terakoyanet | 2015-09-14 09:06 | とらきつね | Trackback | Comments(0)
2014年 01月 29日

『明日、ママがいない』を見る。

今朝は明るくなる前に起きたので、話題のドラマ『明日、ママがいない』(第2話)をGyao無料動画で見ました。

「差別を助長する」という批判を受けている同ドラマですが、作り手の意図は、差別問題の傷口をあえて開いて見せることで問題提起をするところにあり、スポンサーがいなくなっても継続するという姿勢を崩さないところから見ても、制作者側の高い志を感じることができます。

一方で、慈恵病院がこのドラマの中止を求めたことは当然と思えます。
赤ちゃんポストを運営する当事者にとって、「ポスト」という呼び名は到底受け入れがたい。

このドラマについて、はるかぜちゃん(春名風花さん)はTwitterにて

ポストは、ポストという名前に誇りを持って生きてる。それを「かわいそう~」といって見下す行為は、あのこの出生を、存在を、まるごと否定するに等しい行為だ。

と発言し、物議を醸したそうです。はるかぜちゃんはこのドラマの問題提起を正しく受け取って発言している。その意味で彼女の主張は間違っていません。

しかし、実際に「ポスト」と同じ境遇の子どもとその周囲の人たちにとっては、ドラマの問題提起の「本質」なんて二の次の話です。
「差別を助長する」というのは、何もドラマの「本質」を見誤って言っているわけではないのです。そうではなく、当事者は現実的に「差別を助長する」のが恐ろしいし、許せないのです。
魔の巣窟のような施設外観がいかに単なるドラマの「演出」であっても、そのような「イメージ」が演出されること自体に傷つくのです。

だから、このドラマの問題は難しいです。
「当事者」の枠から外れて見れば、このドラマにはきっと意義がある、最後まで続けてほしいと思います。
ネット上に散見されるような、「当事者」の切実感を全く共有しない、つまらない暇つぶしの外野の非難に負けることはないと思います。

しかし、制作者側が忘れてはならないのは、現に当事者がいるということ。
制作者の「我々は差別主義者ではない」という意識は、当事者にとっては時に傲慢な所為でしかない場合があるということです。


それにしても、芦田愛菜さんは、すでに人生の酸いも甘いも噛み分ける演技をするから驚かされますね。

まだ第2回を見ただけ、今後見るかどうかさえもわかりませんが、私がいま感じていることは以上です。


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by terakoyanet | 2014-01-29 08:55 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2013年 12月 19日

ドラマ『リーガルハイ』とアイヒマン裁判について

ドラマ『リーガルハイ』を見ていて、そしてドラマの主人公である古美門研介を見ていて、19世紀のドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェとその思想を連想することはそれほど難しいことではない。

ニーチェが『この人を見よ』の冒頭で「苦痛を申し立てずにはいられない」として槍玉にあげた「隣人愛」を、ドラマの中で果敢に実践する男こそ、NEXUS(=「絆」)代表のミスターウィンウィンこと羽生くんであり、その浅はかさを看過して彼を徹底的に叩きのめすのが
古美門研介その人である。この意味で少なくとも『リーガルハイ2』は「隣人愛」(絆) vs「超人」の戦いであったと言っても過言ではない。

そして戦いの結果、最終話にて明らかになったのは、「隣人愛」を実践する「人たらし」羽生くんは「超人」古美門氏に「ルサンチマン」を抱いているだけでなく、古美門氏を、その髪の分け目さえもいとしく思えるほど「愛して」いるという驚愕の事実であった。

最終話では、これまでのモヤモヤが次々に解消され、これまで我慢した甲斐があったなと思わず膝を打った。古美門は、前話までに描かれた、羽生くんの好意と同情とにより解消されたいくつかの争いが、いまではさらに醜悪な顛末を迎えていることを匂わせる。このことはニーチェが「同情の手が一個の偉大なる運命、痛手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまで差し延べられると、時と場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえある」(『この人を見よ』)と述べた事象を思い出させる。これまで「勝ち負けではない」と言いつつ「みんなを幸せにする」という道義的な解決をすることで結果的に「勝ち」を見せつけていた羽生は、最終話で完全に勝者の座から引きずり下ろされ、代わって「超人」古美門の勝利が高らかに宣告された。(その後も「勝者」のように振る舞う羽生に対しては「あいつはバカなのか」と古美門はただ呆れるしかなかったが。)
そして、黛弁護士が古美門のもとに戻り、三木弁護士が古美門への怨念を取り戻し、本田ジェーンが陰キャラに戻る。天啓を受けたかのようにすべてが元サヤにおさまる明るさは「永劫回帰」さながらで痛快だった。


さて、現在、全国の小規模映画館で絶賛上映中の映画『ハンナ・アーレント』は、
1961年のアイヒマン裁判を傍聴し、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に論文を掲載した結果、世界中のシオニストたちからバッシングを受けた当時のアーレント(ドイツ系ユダヤ人の女性哲学者)の単独者としての苦悩を描いたものである。

数百万人のユダヤ人を強制収容所に送る指揮をとったアイヒマンは、ユダヤ人への差別心と憎悪から大量の殺人を犯した、人間性のかけらもない極悪非道な輩だと誰もが思う中で、アーレントは、自身が収容所に送られた経験を持つユダヤ人であるのにかかわらず、アイヒマン裁判がいかに独善的で不公正なものであるかということ、そしてアイヒマン自身がいかに普通の人間であるかということを詳らかにする。

アーレントは、アイヒマンが犯した悪の凡庸さと陳腐さを描くことで、私たちが外部に「悪人」を措定したその瞬間から、悪の本性が隠されることを指摘する。アイヒマン裁判ははじめからアイヒマン被告という「悪人」が独り立ちしており、その「悪人」ゆえの「悪業」が裁かれたという意味で、悪の本質についての考察がなされていないことをアーレントは深く憂えている。

リーガルハイ2の第9話にはこのシリーズの真骨頂とも言うべき場面がある。
殺人容疑で起訴された安藤貴和。彼女が殺人現場から出る場面を見たという証人が多数いるという検察に関し、「安藤貴和に見えたに違いない。みんながそれを望んでいるから。人は見たいように見る。聞きたいように聞き、信じたいように信じるんです。」「検察は、証拠によってではなく民意によって起訴したんです。」「愚かな国民の愚かな期待にも応えなければならないんですか。」と矢継ぎ早に古美門は問いかける。
「民意」という名のもとに、安藤貴和が「悪女」としてレッテルを貼られたがゆえに、それに沿った証言が得られ、さらにその「悪女」ゆえの「悪業」は「死刑に処すに値する」ことであるして世論が高まる。古美門はそのような民意を「愚かで醜く卑劣」だと言う。

自らの愚かさ、醜さ、卑劣さを隠したいがために、他者に「悪人」という主体を押し付け、そのことで安心する私たち。最終話で
「我がままで勝手で狡くて汚くて醜い底辺のゴミ虫」である私たちだが「醜さを愛する」―つまり自らの「醜さ」を受け入れることで「悪」を他人になすりつけないーことだけが唯一の解決法であることを示した展開はあっぱれの面白さであった。


ただひとつ、心にひっかかる問題が残る。
クルトの問題である。

アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』を執筆したせいで、家族同然の愛すべき友人クルトから背を向けられてしまう。映画『ハンナ・アーレント』のなかで、最も悲しいシーンのひとつである。

いかにアーレントの単独者としての姿勢に畏敬を払う者であっても、危篤状態にかかわらず渾身の力でアーレントに背を向けるクルトを責めることができることができる人がいるであろうか。

悪の本性のようなものを仮に語ったとして、巨大な「悪」から大きな損害を受けた当事者たちにとって、それがいったい何の意味があるのか、ということである。
当事者たちにとって「悪」には「悪人」のような主体はないなんてことが、果たして耐えられることなのだろうか。そのことを考えずにはいられませんでした。






※文中の『この人を見よ』の和訳は、新潮文庫『この人を見よ』(西尾幹二訳)より。 


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by terakoyanet | 2013-12-19 12:16 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2013年 09月 28日

あまちゃん最終回

あまちゃん最終回でしたね。
すばらしかったです。

漠然と、もう人生でドラマにはまることなんてないだろうなと思っていたのに・・・
あまちゃんに心を融かされてしまいました。
本当に面白かったです。

脚本も演出も役者も音楽もどれもよかった。
何かがうまくいくときって、全てが有機的に共鳴し合うからびっくりするようなものができるんですね。

普段、オープニングの音楽は、録画やオンデマンドだったら飛ばしてしまうところなのに、
あまちゃんのテーマは一度も早送りしなかった。することさえ考えなかった。
だってあのテーマを聞くことで、さあ、あまちゃんを見るぞっていう心構えができるから。
特別な音楽でした。

脚本と演出では、登場人物ひとりひとりに愛が注がれていて
私たち視聴者にもさまざまな見方が許容されている。
誰も傷つかないのに、決して媚を売っているわけでもない。
感動シーンと思いきや、茶々が入って笑いが起こる。
いつでも過度になりすぎず、抑制が効いている。
冷静と情熱の間の距離感に思わず膝を叩かずにはいられませんでした。

主演の能年ちゃんは天才ですね。
彼女以外にあきちゃんは考えられない。奇跡的なめぐりあわせとしか思えない。

最終回に近づくにつれ、主要登場人物一人ひとりの心のほつれが次第にほどけ、収束に向かいました。
それに心を寄せる私の心までほどけていくような、穏やかで温かい体験でした。



素晴らしいと言えば、数日前の楽天の優勝、田中将大選手の活躍。
本当にすごいです。おめでたいです。


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by terakoyanet | 2013-09-28 08:58 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2013年 05月 06日

ごくせんと若い女の先生-2008.5.30-

GW休暇、過去の振り返り記事4つ目。今回はこれでおしまいです。

―――

さっきフジ系のTNCでコンバットⅡを見た。このテレビ、深夜放送だから時間的に子どもには奨められないがかなり面白い。今日もかなりウケました。若手芸人ばかりが集まったお笑い番組だけど、それぞれの芸人にそれなりの実力があり、その実力をガチンコでぶつかり合わせてるのがとても楽しい。私の世代の人だったら、かつての「夢で逢えたら」とか「とぶくすり」とかを連想させる勢いのある番組。

今夜はその中で「ごくせん」のパロディーがあって、とっても面白かった。
私自身は「ごくせん」はあまり見たことがないけれど、このパロディーはよかった。

本ドラマでは、ヤンクミがヤンキーたちに説教してとてもいいこと言っている場面はいわゆる感動シーンなのか、暴れ者のはずのヤンキーたちが静かに聞き入っている。まるでそれは遠山の金さんの成敗のシーンのようだ。

しかしこのパロディーでは、静かに聞き入っているヤンキーに混じって一人、文学座風の学生がヤンクミがせっかくいいこと言ってるのにそれを聞かずにそれどころか自分勝手に意味不明で場違いな発声練習のようなことをやったり動きまくったりしてヤンクミの話なんか聞かないのだ。

ヤンクミの名セリフもこれでは片落ちである。その名セリフが導くはずの大団円は消え、収拾がつかなくなり、わけのわからないままそのシーンは終わる。すべてを感動ドラマにしなければ気がすまないヤンクミに対する大いなる風刺ともとれるこのパロディーは、なかなか痛快だった。


痛快ついでに言っておくと、このごくせんのために、なんとなく肩身がせまい思いをしている学校の先生方(特に女の先生)がもしおられたらとても不憫に思う。
ごくせんはフィクションだから、実際と混同するほうがおかしいという意見は当然あるだろうが、ただしこのドラマを見ている子どもたちは意識無意識にかかわらず、このような番組の影響を受ける。ヤンキーがかっこいいといい風潮が増長され、さらに、そういう子どもの目から見て、ヤンクミの対極にある、生真面目な女性らしい若いかよわい先生が、もしつまらない先生とうつるのなら本当にかわいそうだと思う。

若い女の先生が、荒れた中学・高校でどれだけ蔑まれていることか。子どもをいじめから守る取り組みはさかんだが(といっても全くもって十分ではないが)、先生をいじめから守る取り組みというのはほとんど忘れられている。でも真面目な女の先生ほど中学・高校でバカ学生(言葉が悪くてすみません)からひどい仕打ちを受けている。

私が中学生のころ、隣のクラスの担任の若い女の先生が、学期途中に病気で忽然といなくなった。噂によると、その先生は精神を病んで療養することになったと聞いた。でも、わたしはそれを聞いても一瞬ああかわいそうだなあと思っただけでさほど心を動かされることはなかった。その当時の私は、おそらく子どもだったから、先生だって自分と同じ弱い1人の人間だという簡単なことがわかっていなかったのだ。先生は「大人」だから自分とは違う、と思っていたのだ。

子どもが容易に先生を傷つけてしまうのは、先生という仮面の後に、脆弱な人間性が横たわっていることに対する想像力の欠如からだ。先生だって傷つく、先生だって弱い、だからかわいそうだ、そういう簡単なことが子どもにはわからないのだ。

先生どうしの助け合いが上手くいっている稀な学校では、若い女性の先生を、強面の男性教師が背後で子どもたちに何らかのプレッシャーをかけて守っているところもあるだろうと思う。しかし、若い女の先生が、もうどうしようもないほどただ痛めつけられている学校が多くあるのも事実だ。先生たちどうしはライバル関係で、虚栄心がはたらく。ある先生が生徒を統率できていないのに、自分ができている場合、それ見たことかと自分の指導力を誇り、そうでない先生を尻目に懸ける・・・そういうことは、学校ではよく見られる光景だ。これでは若い女の先生たちは、窮地に追い込まれるばかり。

合わないならやめてしまえばいい、そう言うのは簡単だけど、私はそうじゃないと強く言いたい。
その先生が自分の力を十分に発揮する前に、女の若い先生というだけで、生徒たちになめられ、いい指導をする機会をつぶされてしまう。この状況をただほっといて、合わないなら、生徒を統率できないならやめてしまえなんてひどい言い分だと思う。
若い先生たちは「そのうちやり過ごせるようになるよ」とベテランの先生たちに言われる。しかしやり過ごせない人だっているし、やり過ごすことが嫌な人だっているのだ。なんとかベストを尽くしたい、子どもたちにきちんとした指導をしたい、そう真面目に思っている先生ほど潰されてしまうことも多い職場なのだ。

そういう修羅場にいる女の先生たちにとって、ごくせんは応援歌になり得るのだろうか。
ごく一部の先生にはなり得るかもしれない。しかし、実際には遠山の金さんの成敗のようには上手くいかず、一番伝えたいことを話しているときには、決まってどうしようもない闖入者が現れる、それが現実ではないだろうか。

私は、子どもたちに、先生というのは意外と未熟な生物でみんなと同じか弱い人間なんだ、でもだからこそ、先生が言うことには耳を傾ける価値があるんだということを、伝えていけたらと思います。


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by terakoyanet | 2013-05-06 12:00 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2013年 02月 07日

ゲーム

先日AKB48の峯岸みなみが謝罪したあの映像が脳裏に焼き付いている。
囚人を思わせる坊主頭とそれを殊更に目立たせる白い画面。
中3の女の子が「あれはちょっと引くわ~」と言っていたが、私も同じく「引くわ~」と思った。

タレントのフィフィさんが

アイドル恋愛禁止とか、もう目を覚ませよ。恋愛もライフスタイルのひとつ。それも含めて応援してやれよ。それがファンじゃないの?昔のアイドルの状況と違うんだよ

とか言っていたけど私はそれは違うと思った。

ポイントは、今回峯岸みなみが破ったのは「恋愛禁止」というAKB48という仮想ゲーム上のルールだということ。
いわゆるオタファンの人たちはAKB48という年頃の女の子たちがリアルで恋愛をしてないなんて本気で信じてるわけではなく(と言ってしまうと本当は身も蓋もないのだが)、恋愛をしていないということになっている、というルールが存在し、それが表面上守られていればそれでOKなのだ。しかしそのルールはこのゲームの肝であり、遵守されなれなければならないのだ。

峯岸みなみの罪は、恋愛をしたこと自体というよりは、熱愛報道によりゲームの秩序を乱したことにあり、そのことを理解しなければ、今回の問題の本質は見えないと思う。
彼女はそのことを理解しているからこそ坊主頭にしたし、だからこそそれはゲームの埒外にある人たちから見ると明らかな過剰である。女子中学生の「引くわ~」は、その過剰さを目の当たりにしたときの反応である。


バレなければよかったんでしょ。
バレたら反省するなんて、万引きする中学生といっしょじゃん。
反省するなら、最初からやらなければいいじゃん。



というコメントがネットの掲示板にあった。
「バレなければよかったんでしょ。」これはある意味正解だ。
法的に問題がある万引きと違って、バレなければあらゆる意味で何の問題もなかったはずだ。

しかし、万引きと違って、恋愛は、「最初からやらなければいい」ものではなく、やったことがバレてはいけないこと(=仮想ゲームのルールを乱すから)なのである。ここをはっきりさせることは倫理問題上とても大切だ。

フィフィさんのように「恋愛禁止」というルール自体を「時代錯誤だ」と批判する人がいるけど、それを批判するなら、AKB48というゲーム機構そのものについて本腰を入れて批判すべきだ。「恋愛禁止」というのはゲームの1ルールであり、そのルールを必要とする体質自体を批判しなければ本質的な批判にならないと思う。


今回の問題からは、小さいコミュニティから人気が拡大し、メジャー化したAKB48というゲーム機構における、小さなコミュニティ vs マジョリティの軋轢を見ることができる。
マジョリティ側の大きな批判に対し、小さなコミュニティ側であるファンの人たちは、彼女の今回の行動を、ゲームのルールを破るという大罪を犯した彼女が禊をしたとして、一定の評価をするだろう。しかし一方で仮に同じ過ちが繰り返されたり、さらなるスキャンダルが掘り起こされたりした場合には、彼女は一気にファンたちからそっぽを向かれ、グループ(ゲーム)を去らざるをえなくなるだろうと思う。AKBメンバーとファンとは同じゲームのプレイヤーであり、彼女にはこれ以上の失点は認められないのだ。

たかがゲーム。しかしゲームには、その運命に抗えないという意味では、リアルを軽く凌駕する力があることを知り、戦慄を覚えます。

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by terakoyanet | 2013-02-07 10:55 | 雑感・授業風景など | Trackback
2013年 01月 12日

テレビでコクリコ坂があったんですね。

今日はテレビで「コクリコ坂」があったんですね。
今日の授業で2年生のある女の子が『「コクリコ坂」を見ようと思っていたのに。』と、ぷんぷんしているのを見て知りました。

見た方どうでしたか。
私は1年半前に映画館で見たのですが、とっても面白かったです。

良さがわからん・・・と特に若者たちの多くが言っていますが、
私は年を重ねてきたせいでしょうか。
堪能できました。

アニメ映画といえば、私は昨年「おおかみこどもの雨と雪」を見ました。
とてもいいですが、でも私は「コクリコ坂」のほうが好きです。
近年のジブリでは一番好きです。




以下は2年前に私が書いた感想です。
いま読むとちょっと斜に構えた文章ですが。

―――――


先日、ジブリの「コクリコ坂から」を見た。

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*ホークスタウン(生徒曰くホータン)のユナイテッドシネマにて。


ノスタルジーがつまった映画。

挿入歌に坂本九の「上を向いて歩こう」が使われていたが、私はこの曲を聴くたびに強い憧憬が心をよぎる。その憧憬とは、この曲が持つメッセージが真っ直ぐ人たちの心に届いていた時代に対するものだ。いまよりずっと純粋でずっと単純だった時代に対する憧れ。

一度、この映画の主人公たちと同じく1960年代に青春時代を過ごした人たちに尋ねてみたいところだ。本当にこのような時代はあったのですか?と。



話が逸れるが、2001年にウルフルズとRe:Japanが坂本九の「明日があるさ」をカバーした。
私はそのとき、この時代にこの曲をカバーするなんてバカげていると思った。
ニコニコと「明日があるさ」と歌う歌手を見て、なんて空疎なんだと思った。なんて無神経なんだと思った。バカにしていやがると思った。

集合写真でひとりだけ笑っていない人に、無理やり笑顔をつくらせるような強引さ。
「明日があるさ」と高らかに謳っておきながら、実際には「明日がない」というネガティブな共同体がはじめから前提とされており、それでもカラ元気を出して「明日がある」って言っとかないとねという強迫的とも言える所作を感じ、身震いがした。「明日がある」と言っている奴らが実際のところ一番ペシミストじゃないか、と思った。



で、本題に戻ってこのコクリコ坂。
すべての嫌悪すべきものが排除されていた。大人のいやらしいところなど微塵も描かれておらず、恋の駆け引きも何もなく、ただひたすらさわやかだった。その徹底したさわやかさにとても好感を持った。

この物語を観て強いノスタルジーを感じるのは、1963年を経験していない私たちであっても青年時代に体験したことがある真っ直ぐでひたむきな思いがそこに描かれているからだ。
実際のところ、私自身に真っ直ぐでひたむきな時代があったかどうかはわからない。しかしこの映画には、私自身がかつてこのような気持ちを抱いた時代があり、そしてこれからもそれを大切にしたい、と思わせる力があった。これぞ物語の力だ。

映画のディテールにも優れたところが見られた。
私たちの世代には全くなじみのないカルチェラタンのカオス的な雰囲気。
下宿人が描いた油絵から、海が旗をつけた船を発見する場面の色彩。
学校の理事長を廊下で待つ場面のコミカルな時代描写。
思わず笑みがこぼれるシーンがいくつもあり、観ながら穏やかな幸福感を感じた。


強迫的に希望的未来を押しつけるより遥かにすぐれた方法で、私たちに明るい未来のあり方を教えてくれるこの映画が私は好きです。


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by terakoyanet | 2013-01-12 00:07 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2012年 07月 09日

「坂口恭平×石田衣良(アシタスイッチ)」を観る

昨日から「坂口恭平」という検索ワードで本ブログに入ってくる方が激増している。
昨日のテレビ「アシタスイッチ」の影響が大きいことは間違いないところ。

私も観ました。「アスタスイッチ」
見た直後に私がTwitterに連投した内容を以下に転載します。

Twitterに書き込むと前後内容が確認しづらく、部分的にまとまりがありませんが。

―――――


アシタスイッチを見た。坂口恭平氏が石田衣良氏と話していて、坂口氏が夢を、石田氏が現実を語っているかのような構成だった。坂口氏は自身を夢師と呼ぶが、少なくとも石田氏ら良識派から見た意味での、つまり現実の対極としての「夢」師ではないと私は思っている。

坂口氏は少なくとも石田氏よりは「現実」を見ている。土地の所有という概念、お金という概念が一種の「夢」であり幻想であることについて「現実」的な視点から語っているのが坂口氏だ。

それに対して良識派は言うのだ。 そんなことはわかっている。でもだからってなんだっていうんだ?現実としてお金で世の中は成り立っているんだ、不動産で経済は動いているんだ、と。

良識派は半ば無意識にはじめから見ないようにしているのだ。「疑い」を持つことで自身の世界が歪むのが恐ろしいのだろうか。良識派の「抵抗」はとてつもなく強力だ。良識派は自身を「現実派」、相手を「夢師」とすることで、足場を確固たるものとする。

今回のアシタスイッチもそうだ。石田衣良氏は見事に「現実派」として模範的なふるまいをした。結果、坂口恭平氏は「現実」を見ない「夢想家」の若造として多くの人の目に映っただろう。しかしこれは良識派の常套手段である。私たちは目を凝らして頭を働かせて「現実」とは何か考える必要がある。

土地の所有やお金に対する根本的な疑問、これらをあらゆる社会問題を切り崩す糸口にすること自体は古典的な方法だ。ただ、坂口氏はその糸の手繰り寄せ方に独創がある。坂口氏はその独創をもっと徹底するべきではないだろうか。変に「社会派」として見られると良識的な「現実派」たちから潰されてしまう 。

坂口恭平がいう「社会」と石田衣良がいう「社会」ではそもそも意味が全く異なる。 坂口氏の「社会」は目の前にあるミクロな世界の延長にあるワタシと繋がった世界であるのに対し、石田氏の「社会」はワタシが存在し思考する以前からゆるぎないものとしてあるマクロな世界である。

坂口氏の「社会」には何も確約されたものがない。手探りで自分で社会を見つけていくのだ。しかし、石田氏の社会は初めから措定のものとしてそこにあり、私たちは抗うことができない。これらの良識に対して、手探りで不安だけど、抗うことは可能なんだよ、楽しいんだよ、と言うのが坂口氏の仕事だ。

「現実派」の人たちになぜ坂口氏の話が通じないかと言えば、彼らは先にマクロな「社会」を前提として語っているからだ。彼らがその場所から語る限り、坂口氏の話は全く通じない。その意味で坂口氏には勝ち目がない。

彼らが負けようがない位置から話しているとすれば、坂口氏は別のアプローチを取る以外に方法はない。 私は「社会派」なのではなく「あなたが死なずに生きていくことができるように。」ということを素朴に考えているのだ、ということをただひたすら伝えまくるしかないのではないだろうか。

彼はすでにそのことを十分にやっているけれど、今回のアシタスイッチだけ見た人はそれがわからないだろう。 坂口氏はマクロな社会と対決するという姿勢ではなく、そのような檻のような前提のある社会からあぶれた人たちを助けたいと思っており、それが結果的に社会貢献になると信じている人だと思う。

彼がやっている一見奇抜で風変わりに見えることが、実際のところは、すごく真っ当で普通のことなんだという感覚が多くの人に伝われば、彼がやっていることはひとまず成功だ。

しかし、すごく真っ当で普通のことをそのまま表現しては芸術ではないし、抵抗あっての芸術である。芸術はあえて抵抗装置を用意することによって見る者のふるい分けをする。彼の最近の活動にはあらゆるところできしきしと抵抗が音を立てているのが聞こえる。その意味ではやはり彼がやっていることは芸術なのだと思う。


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by terakoyanet | 2012-07-09 12:51 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2010年 06月 19日

見る前に飛ぶ。

見る前に飛ぶ。

これが大事だと、いま深夜テレビで福岡の企業家が語っていました。
考える前にとにかくチャレンジせよ、ということだと思いますが。


見る前に飛べ、この言葉を真に受けて飛んでみる。

A氏はうまく飛べた。美しい空と海。果てしなく広がる地平線。飛んでみてよかった、と心から思う。
B氏は飛んだと思った瞬間、気づいた。俺は飛び方を知らない。そして瞬く間にまっさかさまに墜落した。命が助かったかは誰にもわからない。



先見の明、という言葉があります。
まだ見ていないことを先に見抜いてしまう。


しかし、先見の明がある人間が、現実に先が見えているかといえばそうではない。
預言者ではないんだから、一寸先の未来もわからないのが人間。

だとすると、先見の明がある人間が見えているものとは何か。
先見の明がある、というのは実は社会のしくみ、ひいては人間の習性がある程度理解できている、特別に未来のことが見えるというわけではなく、「いま」をつまびらかに見ることができるという一種の知恵なのではないかと私は思う。

見る前に飛ぶ、これに成功した人間のほとんどは、「いま」を見ることに長けている人たちだ。そのような意味において、彼らは、見る前に見ていたから飛べたのだ。

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by terakoyanet | 2010-06-19 02:17 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)