寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2017年 05月 28日

ウブドの散歩道、チャンプアンリッジウォーク

チャンプアンリッジウォーク(Campuhan Ridge Walk)はウブド周辺の数ある散歩道の中でも特に美しいことで知られていて、さっきまで居た町中の喧騒が嘘のように気持ちの良い風が吹いています。午前中の散歩がオススメです。

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東浩紀の新著『ゲンロン0』を読んでいます。「観光客」という軽薄な存在の捉え直し。とても面白いです。全部読んだ後にお話しできればと思います。


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by terakoyanet | 2017-05-28 09:23 | 塾長おすすめの場所 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 19日

情報戦

情報に翻弄されて不安になっているときは、一度立ち止まって深呼吸をして、自分の足元を見つめ直した方がいい。その不安は他者に対する不安ではない。あなた自身の不安なのだから。電話の向こうの人に、そう話をしたくなることがあるけれど、正面切ってそんなことを言うのは難しいです。

不安を解消したいという欲に突き動かされている人に、いや大丈夫と話しても、全く効果がないどころか、むしろその欲を制止・抑圧されるとその人に感じさせれば、反発が生じたり、ときには忽ちに目の前からいなくなってしまったり。

不安→かりそめの安心→不安 を繰り返すのは苦しい。
不安は情報に翻弄されるから生じます。たくさんの情報があるのに、その中に、何一つ寄りかかることができる確固たるものがない、だから不安は増長します。

でも、情報の本質はそういうものです。それは人生の滋養になりません。
情報は、自分の心と身体を使って得られたものではないでしょう。そんなものに流される人生は、荒波に翻弄される小さな木の枝同様に、浮き沈みを繰り返したのちに、早々と朽ちていきます。

情報が人の人生を朽ちさせるようなものなら、そこから距離を置く工夫をしましょう。
情報に頼るのではなく、自分の嗅覚に頼りましょう。

その嗅覚は決して確固たるものではない。だから、そこに不安があれば、再び情報に頼ろうとするかもしれません。
でもそこは踏ん張りどころです。辛抱が必要です。人とモノに心を寄せるというのは、本来的に苦しいことですから、覚悟が必要なんです。
嗅覚に頼るというのは、独断に陥ることではないんです。匂いはその都度に変化します。自分自身もその都度に変化します。その変化に対する感受性を研ぎ澄ますこと。そしてその変化自体を受け入れること。それが私たちに求められている生きのびるための知恵ではないでしょうか。


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by terakoyanet | 2017-04-19 08:54 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 02月 15日

幸田露伴の『趣味』を読む

前回の現代国語(高校コース)の授業では、幸田露伴の『趣味』を読みました。
まさに珠玉の短文と言うべき文章で、時折、生徒たちと読む機会を作っています。

『趣味』は過去に一橋大学をはじめ、多くの国立大の国語の問題でも何度も登場しており、擬古文(近代文語文)のために現代の私たちにはちょっと読みにくいのですが、音読するとさらに良さが分かるのは、擬古文ならではのことで、本来は原文を読んでいただいたほうがよいのですが、今回は、この文章の現代語訳(意訳あり)を書くことで、もうすぐ卒業する生徒たち、特に高3生たちへのギフトとしたいと思います。

(ギフトと言えば、高3生のある子が、先日、自習室をはじめとするいまの寺子屋の中で気になることについて率直に話してくれました。大切なギフトをもらいました。ありがとう。)


『趣味』 幸田露伴

趣味は人の思考であり、見識であり、思想であり、気品であり、心である。心は卑しいところを改め、善い方へと正していかないわけにはいかないだろうし、気品は清く高くあるべきである。思想は汚らしくも下品でもないことが必要であり、見識は卑しいところがないことが必要である。嗜好には行き過ぎのないけじめがほしいし、趣味がひどく低くて浅いのは残念なことである。自らの手で土壌を作り、自らの手で養い、自らの手で育て上げ、その結果、自分自身の中に自然に生じた心の色が花のように咲き出でた趣味こそを、特に栄えさせねばならない。

目の覚めるような華やかなものを好む人がいる。心が引き締まるようなものを喜ぶ人がいる。淡白なものを好む人がおり、濃厚なものを愛おしく思う人がいる。艶やかな美しさを愛する人がおり、渋く古びたものを欲しがる人がいる。人の趣味は、ちょうど人の顔の形や人の声色がそれぞれに異なっているように、千差万別である。自分の基準で他人を正してはならず、逆に、いたずらに他人の真似をして自分を捻じ曲げるのも難しくて上手くはいかない。なぜなら趣味は、人々それぞれに宿る心の花から出た自然の色だからである。花を染めて元ではない色を作り、花を洗い流して元の花の色にはない色を作ったとして、本当にそれに何の甲斐があるというのだろうか。それぞれの人に咲く花は、土壌を作り、養い育て、充分に成長させて、その結果、自然に表出した色を、春や秋の空の下に、心ゆくまで豊かに解き放って自由に美しく伸ばしていかねばならない。人の趣味は、土壌を作り、養い、充分に育て上げて、その自然に基づく趣味の香りをゆったりと世の中に広げ香らせるべきである。

自らに不足があることを知るのは、満足に至るための道である。至らないことを知るのは、高みを目指すための道である。自分の趣味が不十分であることを知り、尚も至らないということを悟る人は幸せである、その人の趣味は、まさに次第に成長し、次第に進歩しようとしているのである。自分の趣味が幼稚であることを反省もしないで、自分が良いと思うものばかりをいつも良いと思い、自分の興味深いものばかりをいつも興味深いとして、高みを目指そうとせず、卑しいところを改めようとしない人には幸いはない。その人の心の花はすでに石となり、生命を失っているからである。

髪飾りはいつも黄金であることを欲し、着物は必ず絹であることを欲するのは、欲望というものであり、それは趣味ではない。欲望は自分を縛り、そこに自由はない。趣味は自分を縛ることをせず、自由がある。趣味が低く、欲望が強ければ、自分が欲しいものが手に入らないと、その苦悩は際限のないものとなる。趣味が高く、欲望が薄いものならば、もし自分の欲しいものが手に入らなくても、それとは別にふさわしい楽しみが、一つや二つどころではなく見つけられるだろう。ちっぽけな野菊の花を髪飾りにしても、香りの消えた山吹の花を髪飾りにしても、薔薇の一輪が白く膨らんでいるのを髪飾りにしても、梅もどきのいくつかの実の赤いものを髪飾りにしても、その人の趣味から見たときに「良い」とするものであれば、たとえ木の端や竹の切れ端を髪飾りにしても、そこに満足や喜びがあるに違いない。時と所におうじて、どんなときも、どんな場所でも、喜びの気持ちを見出すことができるのは、趣味によるものである。欲しいものが得られないと苦しみ、遂げたい願いが遂げられなければ悩み、そのように、自分の心を、自分の外にある物の奴隷にして、心がその物に支配されてしまうようになるのは、欲望がそうさせるのである。欲望は人を苦しめ、趣味は人を生かす。趣味の豊かな人は幸せであることよ。

自分に何か得るところがあっても、他人にそれを期待しない、これを徳という。自分の心に楽しむことがあって、物事に煩わされることがない、これを趣味という。どんなときでも、どうにか十分な趣味さえ持っていたら、荒れ果てた寂しく寒々しい境遇であっても、その趣味によって楽しむことができるだろう。だから、培わなければならない、養わなければならない、そして育て上げなければならない、人の趣味性を。




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by terakoyanet | 2017-02-15 14:45 | 塾長おすすめの書籍・CD | Trackback | Comments(0)
2016年 10月 05日

「君の名は。」はなぜせつなくなるのか。

夏目漱石は、小説『虞美人草』に登場する甲野さんに次のように言わせています。


「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奧に捕えたるとき、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」


これは、人が「物」と言うときには、それはいつでもすでに言語化、象徴化されたあとの「物」でしかないのに、人はそれが実体の「物」でもあるかのように扱う、という洞察に基づいています。人が「物」を自明の「物」として観たその瞬間に、「空の不可思議」は永遠に過去のものとして葬り去られ、代わりに〈信=真〉が立つのです。そしてもともと「物」の場所に「空の不可思議」があったことも忘れてしまい、わたしたちは言語化、象徴化された世界を「現実の世界」として疑うことなく、そこでぬくぬくと生きていくこととなります。

これと似た洞察が見られたのが、映画「マトリックス」です。

平凡な日常の中にいた主人公が、ある日突然に見知らぬ人たちから「真実に目覚める」というピルを渡されます。そのピルを飲んだ主人公は、それまで現実と思ってきたもの全てが、コンピュータが作り出したヴァーチュアルな幻想に過ぎず、実際には人間は、コンピュータに神経を接続されたまま、水槽の中で眠らされてその幻想を夢の中で見ているに過ぎないことを理解します。こうして「真実」に目覚めた主人公は、夢見る人間たちを覚醒させるという目標のために、コンピュータウイルスのように回路に侵入することで、そのコンピュータの支配に闘いを挑むことになるのです。

コンピュータと闘う人間は、ヴァーチュアルな世界に対して距離を置き、その世界を象徴的なものに覆われた巨大なテキストとみなすことで、解釈によってはその世界は別の意味を持ち得るものだと考えています。一方で、コンピュータに繋げられて夢を見ている人間にとっては、「この世界」は絶対的なものとして存在しており、実在と意味(象徴)は疑いなくピタリと一致しています。彼らが「この世界」を絶対化し、その実在を信じて疑わないのに対し、「この世界」を相対化できる者だけが、現実の世界に目覚め、真実に触れる自由を得られるというのです。

この映画をSF的なものとして見ていた観客たちは、次第に気づき始めます。これは単なる奇想天外な物語ではなく、あまりに「現実的」な話であり、日常の中にいる私たち、「この世界」の実在を信じて疑わない私たちが、いままさに覚醒させられようとしているということに。

では、日常生活が一つの夢というテクストであり、それが意味を支配する魔法にかけられているようなものだとすれば、その魔法がとけたときに、私たちに何が見えるのでしょうか。マトリックスの中で描かれるのは、ヴァーチャルな世界を相対化し、そこから離れたとしても、そこで拠り所となる真の現実が立ち現れるわけではない、という困難です。「この世界」を現実そのものとして固く信じて疑わない態度そのものが、あらゆる幻想の実体だとすれば、「この世界」を相対化して覚醒すべき「別の世界」を目指すことは、新たな「この世界」を立ち上げるふるまいにすぎないのです。


このようなアポリアについて考察していくと、『君の名は。』がなぜせつないのか、という回答のひとつにたどり着きます。


「目覚めても忘れないように名前を書いておこう」
「君の名前は三葉」
「…大丈夫、覚えてる!」
「三葉、三葉…。三葉、みつは、みつは。名前はみつは!」
「君の名前は…!」
「………!」
「…お前は、誰だ?」
「…俺は、どうしてここに来た?」
「あいつに……あいつに逢うために来た!助けるために来た!生きていてほしかった!」
「誰だ?誰だ、誰だ、誰だ………?」
「大事な人、忘れちゃダメな人。忘れたくなかった人!」


『君の名は。』において、瀧は三葉のことを、三葉は瀧のことを、大切に思っていて、その名前を絶対に忘れたくない。でも忘れてしまう。

ここには、人間の根源的な悲しみがあります。
人は象徴という意味を支配する魔法の中で生きていて、その魔法が消えてしまっては、私とあなたとを繋ぐ回路を失ってしまうということです。象徴というのは、夢から醒めたらすぐに消えてしまうような脆弱なものなのに、それを失ってしまっては、私はどんなに思ってみても、私があなたに何かを届けるすべは何もなくなってしまうのです。そして、失ってしまった後では、何を失ってしまったかということさえも忘れてしまうのです。

「君の名は。」映画のタイトル自体となっているこの言葉は、意味作用のはかなさ、そしてそのはかないものに頼らざるをえない私たちの関係性そのもののはかなさを痛切に叫ぶ声そのものです。


世界がこれほどまでに醜い場所ならば、俺はこの寂しさだけを携えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけでもがき続けてみせる。ばらばらでも、もう二度と逢えなくても、俺はもがくのだ。納得なんて一生絶対にしてやるもんか、神様にけんかを売るような気持ちで、俺はひととき、強くつよくそう思う。自分が忘れたという現象そのものも、俺はもうすぐ忘れてしまう。だから、この感情一つだけを足場にして、俺は最後にもう一度だけ、大声で夜空に叫ぶ。
 「君の、名前は?」





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by terakoyanet | 2016-10-05 13:13 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 19日

バニュワンギ郊外にあるミコさんのお宅を訪問

ジャワ島では山岳地帯をはじめ安全性に懸念の大きい場所をめぐったため、専属のガイド帯同の行程をとりました。
数名のガイドのなかでも、ミコ(Miko)さん(以下ミコ)とは丸3日間いっしょに行動したので、すっかり打ち解けていろいろな話をしました。
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日本人がここにやってきたのは初めてですとにわかに信じがたいことを伝えられたIjen Resort。イジェンの麓、神から祝福されたような牧歌的な美しさを持つ田園地帯にあるこのホテルは、シンプルながら清潔で料理も美味しくとてもおすすめ。部屋の窓やプールからは、周辺のライステラスやイジェンの山々を一望できます。


最終日になり、ホテルから空港に行く(車で1時間くらい)途中に僕の家があるからと、ミコの家に立ち寄ることになりました。車窓から見えるのは稲の手植えや鋤を引く水牛といった伝統的な農村風景。

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日本人はまず来ないけれど、欧米人たちはこの地区でたびたび農業体験をします。そういったツアーを受け入れることで、一部の農家はすごく(経済的に)助かっています、とミコ。

農業機械の導入、とかそういう話はないのですか?

ありますよ。一部では使われている。でもすごく高価なんです。だから稲刈りのときは借りたり共同購入したものを使ったりしている。でも老人にとってはその使い方は難しい。うまく使えなくて結局もとのやり方に戻った人もいます。

日本人はまず来ない、って言ったけどなぜでしょうか。

日本人、まあこれは韓国や中国、台湾の人たちも含まれるんだけど、そういう人たちと、欧米やオーストラリアの人たちとでは旅に求めるものが違う、そうではないですか?

そうですね。アジア人は概して買い物が好き、欧米人は自然や文化が好き。そういう感じでしょうか?

うん。僕はバリ島で働いていたことがあるから、そのコントラストは目を見張るほどでした。ただダイビングだけはアジア人も好きだけど。でもバリ島で登山やトレッキングをする日本人はほとんどいないでしょ。ジャワ島まで来て火山を登りたいっていう日本人も珍しいですよ。

ミコはくすくすと私のほうをみて笑う。

バリ島でオランダ人に言われましたよ。なぜ君はインドネシアに来てまで火山を見に行くんだ!?日本人なら火山は不足していないはずだって。

あははは。確かに日本人とフィリピン人と私たちインドネシア人は、火山については何の不足もないですね。

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さっきの話だけど、西洋人とアジア人では「消費」についての自覚が全く異なるんです。西洋の人たちはすでに「仕組まれた産業」の中で私たちが「消費させられている」ことに自覚的だから、消費行動として最もわかりやすい「買い物」には興味を失っている。でもそこはまだアジアの人たちは素朴です。「買い物」自体がまだ楽しみとして成立しているんだから。でもアジアの人たちは別にそのことを卑下しなくってもいい、だって西洋人のアクティブな「楽しみ」や「体験」は、多くの場合、消費行動を表面的に無害化するためにあるんだから。彼らだって自分が何がやりたいかなんて本当はわかっていない、私にはそう見えます。

そんなことを考えながらガイドをするのはどんな気持ちなのですか?

もちろん楽しいですよ。実際に「体験」が始まると、「動機」は消えて楽しさだけが残る。これはガイドする側もされる側も同じことです。


彼は西洋人とアジア人の比較で話をしたが、これからアジアや日本の人たちの志向も変わってくるかもしれない。ガイドブック「地球の歩き方」の最新版には、バリ島内のトレッキングコースについての特集が載っており、日本人の志向の変化が窺える。高校生たちを指導していて個人的に感じるのだけれど、彼らは「消費させられている」という話をした場合、何の抵抗も示さない。すでに彼らはそのことを知っている、そのような印象を受けることが多い。でもだからと言って日本の若者たちが西洋の人たちと同じリアクションをとるとは思わない。彼らはすでに「自分が何がやりたいかなんて本当はわかっていない」ということを引き受けた上で、それぞれのキャラを演じ、コミュニケーションの円環の中で自活している。


よく「うちの国にも遊びにおいでよ!」って欧米の人たちに言われるけど、私たちインドネシア人が観光のために欧米に行くのがどれだけ難しいことか、きっと彼らの想像の何倍も難しいということをわかっていない、と思うことが多い。ビザの問題もあるし。でも、そのかわりに私はたくさんの国の人たちと話している。だから私は彼らに言うんです。「私はもう何もかも見ているから、行かなくても大丈夫。」って。実際のところ、移動することと、ものを見ることの間には直接の関係はないのです。


まるでアドルノとホルクハイマーの幻影を見るような、そんな話をしながらミコさんの家に到着。
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「日本からのお客さんだよ」とミコさんが言うと、お姉ちゃんが一言「AKB48・・」。
インドネシアではJKT48が活動しているからか知名度が高いらしい。最初は写真におさまるのを「恥ずかしい・・」と言っていたけれど、お父さん(ミコ)に促されこの笑顔。ありがとう。

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土地の果物や手作りのお菓子、さらにお食事までいただきました。

そして弟のプリンゴくん(3歳)と近所の友達といっしょに集落内を散策。
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ミコの義理の兄は凧をつくるのが上手。
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おばあちゃんとできたよ、とポーズ。
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そのほかにも石磨きや洋裁店などいろいろなところに行きました。

最後にミコと子どもたちと家のすぐそばのとても小さな小学校へ。
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この学校は私設の小学校です。ここはバニュワンギ郊外の小さな集落だから、もともと小学校がなかったんです。だから十数年前に私たちがこの学校を建てて、近くの村から先生ができる人を連れてきて学校を始めたんです。でも私設だから、この小学校を卒業しても上級の学校に上がれない、そんな状態が続いていました。
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でも、昨年ようやく国に学校として認められ、国から派遣された先生がやってきたんです。
だからプリンゴは、私たちが行けなかった上級の学校に行ける。
そういうわけで学校を最初につくった私たちにとって、この学校はちょっとした誇りなんです。
ミコはそう話しました。

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この前より伸びたね、と身長を測るプリンゴくん。ミコと村の人の愛おしいもので溢れているから、それを共有するだけで私のほうも愛おしい気持ちになる。


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帰り際にミコが見せてくれたプリンゴくんのお遊戯会の写真。プリンゴくん、美形すぎる!


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君は公平にものを見ようと努力する人だ。君は旅を続けるべきだと思うよ。ミコさんは別れ際にそう私に言ってくれました。
ミコさんやその村の人たちと過ごした時間が忘れられません。


(*行って時間が経過しましたので、一部の会話がフィクションであることをお許しください。)


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by terakoyanet | 2016-01-19 10:24 | 塾長おすすめの場所 | Trackback | Comments(0)
2015年 10月 04日

鈴木大拙館

先日、国語の授業で登場した鈴木大拙、昨日とらきつねで行われた青花の会でも講師の高木さんの口から一度だけ鈴木大拙の名が上がりました。

金沢に行ったとき、鈴木大拙館を訪れました。
海外の方ばかりお越しになっていたのがとても印象的でした。

先日インドネシアに行ったときも、鈴木大拙が好きなオランダ人に会いました。
私たちには全く別の生き方の可能性があるんだ。この本はそのことを私に示してくれた。
彼は私にそう言いました。
鈴木大拙館の設計は谷口吉生氏。
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空間には、とても良い気が流れていました。
そういった話をしたいところですが、私はなんとなくこういう空間に「しつらえられた感」のようなものを感じて落ち着かなくなってしまいます。整然としすぎているのです。
もっともこのように感じるのは私個人の問題です。
鈴木大拙の著作をゆっくり読むことができる空間もあり、深閑としたなかで心を整えるのに良い場所なのではないでしょうか。



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by terakoyanet | 2015-10-04 11:33 | 塾長おすすめの場所 | Trackback | Comments(0)
2014年 10月 20日

自分とふたりっきりで暮らす

いまFACEBOOKを見ていたら、谷川俊太郎氏がバカボンのパパに託して書いた一篇の詩が流れてきた。



自分とふたりっきりで暮らすのだ

自分のパンツは自分で洗うのだ

自分は自分を尊敬しているから

それくらいなんでもないのだ

自分がニコニコすれば

自分も嬉しくなってニコニコするのだ

自分が怒ると自分はこわくなるので

すぐに自分と仲直りするのだ

自分はとっても傷つきやすいから

自分の言うことさえきいていれば

自分は自分を失うことはない

自分は自分が好きで好きでたまらない

自分のためなら生命も惜しくない

それほど自分はすばらしいのだ





原詩では、ひらがな部分はすべてカタカナで表記。

バカボンのパパのセリフだからカタカナで書かれたわけだが、カタカナ表記で、且つ自恃を感じさせる内容が、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を連想させた。

私(たち)が日ごろ気疲れしているときというのは、たいてい、他の人の評価を気にしていたり、他の人に腹だっていたりする。

でも、そんなときこそ、投げやりになることなく、自分の心と対話しながら、しかるべき道を定めていきたい。




バカボンのパパの「これでいいのだ」という全肯定は、私たちの心を蝕む自己否定に対する最大の対抗手段である。

それは決して開き直りではなく、諦念でも思考停止でもなく、むしろ、否定の悪循環を停止する意志を持ち、そういった意志を持つ自分を頼みとすることが、私たちの生きる術であり、ひいては私たちの幸せにつながるということを示唆していると、私は考えたい。


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by terakoyanet | 2014-10-20 09:23 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2014年 08月 17日

ハバロフスクのレーニン像

お盆に仕事と観光を兼ねて極東を訪れました。

ロシア極東地域における中心都市のひとつ、ハバロフスクの中心部には、レーニン広場があります。

レーニン像と言えば、冷戦が終わるころに各地で引き倒された革命家レーニンの像を思い浮かべます。
銅像になった彼は決まって禿げ頭で、そしていかめしい丈長のコートを着て、時に攻撃的に指を立てた「強いソ連」を象徴するものになっています。

しかし、ハバロフスクのレーニン像はハンチングをかぶった労働者風のスタイルで、彼が革命家になる以前の、哲学者、思想家としての若かりし姿を示しています。
社会主義という道筋が途絶えてしまったいま若い彼を見ると、なんだか得体のしれない感傷が込み上げます。

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by terakoyanet | 2014-08-17 12:52 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2013年 12月 19日

ドラマ『リーガルハイ』とアイヒマン裁判について

ドラマ『リーガルハイ』を見ていて、そしてドラマの主人公である古美門研介を見ていて、19世紀のドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェとその思想を連想することはそれほど難しいことではない。

ニーチェが『この人を見よ』の冒頭で「苦痛を申し立てずにはいられない」として槍玉にあげた「隣人愛」を、ドラマの中で果敢に実践する男こそ、NEXUS(=「絆」)代表のミスターウィンウィンこと羽生くんであり、その浅はかさを看過して彼を徹底的に叩きのめすのが
古美門研介その人である。この意味で少なくとも『リーガルハイ2』は「隣人愛」(絆) vs「超人」の戦いであったと言っても過言ではない。

そして戦いの結果、最終話にて明らかになったのは、「隣人愛」を実践する「人たらし」羽生くんは「超人」古美門氏に「ルサンチマン」を抱いているだけでなく、古美門氏を、その髪の分け目さえもいとしく思えるほど「愛して」いるという驚愕の事実であった。

最終話では、これまでのモヤモヤが次々に解消され、これまで我慢した甲斐があったなと思わず膝を打った。古美門は、前話までに描かれた、羽生くんの好意と同情とにより解消されたいくつかの争いが、いまではさらに醜悪な顛末を迎えていることを匂わせる。このことはニーチェが「同情の手が一個の偉大なる運命、痛手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまで差し延べられると、時と場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえある」(『この人を見よ』)と述べた事象を思い出させる。これまで「勝ち負けではない」と言いつつ「みんなを幸せにする」という道義的な解決をすることで結果的に「勝ち」を見せつけていた羽生は、最終話で完全に勝者の座から引きずり下ろされ、代わって「超人」古美門の勝利が高らかに宣告された。(その後も「勝者」のように振る舞う羽生に対しては「あいつはバカなのか」と古美門はただ呆れるしかなかったが。)
そして、黛弁護士が古美門のもとに戻り、三木弁護士が古美門への怨念を取り戻し、本田ジェーンが陰キャラに戻る。天啓を受けたかのようにすべてが元サヤにおさまる明るさは「永劫回帰」さながらで痛快だった。


さて、現在、全国の小規模映画館で絶賛上映中の映画『ハンナ・アーレント』は、
1961年のアイヒマン裁判を傍聴し、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に論文を掲載した結果、世界中のシオニストたちからバッシングを受けた当時のアーレント(ドイツ系ユダヤ人の女性哲学者)の単独者としての苦悩を描いたものである。

数百万人のユダヤ人を強制収容所に送る指揮をとったアイヒマンは、ユダヤ人への差別心と憎悪から大量の殺人を犯した、人間性のかけらもない極悪非道な輩だと誰もが思う中で、アーレントは、自身が収容所に送られた経験を持つユダヤ人であるのにかかわらず、アイヒマン裁判がいかに独善的で不公正なものであるかということ、そしてアイヒマン自身がいかに普通の人間であるかということを詳らかにする。

アーレントは、アイヒマンが犯した悪の凡庸さと陳腐さを描くことで、私たちが外部に「悪人」を措定したその瞬間から、悪の本性が隠されることを指摘する。アイヒマン裁判ははじめからアイヒマン被告という「悪人」が独り立ちしており、その「悪人」ゆえの「悪業」が裁かれたという意味で、悪の本質についての考察がなされていないことをアーレントは深く憂えている。

リーガルハイ2の第9話にはこのシリーズの真骨頂とも言うべき場面がある。
殺人容疑で起訴された安藤貴和。彼女が殺人現場から出る場面を見たという証人が多数いるという検察に関し、「安藤貴和に見えたに違いない。みんながそれを望んでいるから。人は見たいように見る。聞きたいように聞き、信じたいように信じるんです。」「検察は、証拠によってではなく民意によって起訴したんです。」「愚かな国民の愚かな期待にも応えなければならないんですか。」と矢継ぎ早に古美門は問いかける。
「民意」という名のもとに、安藤貴和が「悪女」としてレッテルを貼られたがゆえに、それに沿った証言が得られ、さらにその「悪女」ゆえの「悪業」は「死刑に処すに値する」ことであるして世論が高まる。古美門はそのような民意を「愚かで醜く卑劣」だと言う。

自らの愚かさ、醜さ、卑劣さを隠したいがために、他者に「悪人」という主体を押し付け、そのことで安心する私たち。最終話で
「我がままで勝手で狡くて汚くて醜い底辺のゴミ虫」である私たちだが「醜さを愛する」―つまり自らの「醜さ」を受け入れることで「悪」を他人になすりつけないーことだけが唯一の解決法であることを示した展開はあっぱれの面白さであった。


ただひとつ、心にひっかかる問題が残る。
クルトの問題である。

アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』を執筆したせいで、家族同然の愛すべき友人クルトから背を向けられてしまう。映画『ハンナ・アーレント』のなかで、最も悲しいシーンのひとつである。

いかにアーレントの単独者としての姿勢に畏敬を払う者であっても、危篤状態にかかわらず渾身の力でアーレントに背を向けるクルトを責めることができることができる人がいるであろうか。

悪の本性のようなものを仮に語ったとして、巨大な「悪」から大きな損害を受けた当事者たちにとって、それがいったい何の意味があるのか、ということである。
当事者たちにとって「悪」には「悪人」のような主体はないなんてことが、果たして耐えられることなのだろうか。そのことを考えずにはいられませんでした。


 



※文中の『この人を見よ』の和訳は、新潮文庫『この人を見よ』(西尾幹二訳)より。 


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by terakoyanet | 2013-12-19 12:16 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2012年 07月 09日

「坂口恭平×石田衣良(アシタスイッチ)」を観る

昨日から「坂口恭平」という検索ワードで本ブログに入ってくる方が激増している。
昨日のテレビ「アシタスイッチ」の影響が大きいことは間違いないところ。

私も観ました。「アスタスイッチ」
見た直後に私がTwitterに連投した内容を以下に転載します。

Twitterに書き込むと前後内容が確認しづらく、部分的にまとまりがありませんが。

―――――


アシタスイッチを見た。坂口恭平氏が石田衣良氏と話していて、坂口氏が夢を、石田氏が現実を語っているかのような構成だった。坂口氏は自身を夢師と呼ぶが、少なくとも石田氏ら良識派から見た意味での、つまり現実の対極としての「夢」師ではないと私は思っている。

坂口氏は少なくとも石田氏よりは「現実」を見ている。土地の所有という概念、お金という概念が一種の「夢」であり幻想であることについて「現実」的な視点から語っているのが坂口氏だ。

それに対して良識派は言うのだ。 そんなことはわかっている。でもだからってなんだっていうんだ?現実としてお金で世の中は成り立っているんだ、不動産で経済は動いているんだ、と。

良識派は半ば無意識にはじめから見ないようにしているのだ。「疑い」を持つことで自身の世界が歪むのが恐ろしいのだろうか。良識派の「抵抗」はとてつもなく強力だ。良識派は自身を「現実派」、相手を「夢師」とすることで、足場を確固たるものとする。

今回のアシタスイッチもそうだ。石田衣良氏は見事に「現実派」として模範的なふるまいをした。結果、坂口恭平氏は「現実」を見ない「夢想家」の若造として多くの人の目に映っただろう。しかしこれは良識派の常套手段である。私たちは目を凝らして頭を働かせて「現実」とは何か考える必要がある。

土地の所有やお金に対する根本的な疑問、これらをあらゆる社会問題を切り崩す糸口にすること自体は古典的な方法だ。ただ、坂口氏はその糸の手繰り寄せ方に独創がある。坂口氏はその独創をもっと徹底するべきではないだろうか。変に「社会派」として見られると良識的な「現実派」たちから潰されてしまう 。

坂口恭平がいう「社会」と石田衣良がいう「社会」ではそもそも意味が全く異なる。 坂口氏の「社会」は目の前にあるミクロな世界の延長にあるワタシと繋がった世界であるのに対し、石田氏の「社会」はワタシが存在し思考する以前からゆるぎないものとしてあるマクロな世界である。

坂口氏の「社会」には何も確約されたものがない。手探りで自分で社会を見つけていくのだ。しかし、石田氏の社会は初めから措定のものとしてそこにあり、私たちは抗うことができない。これらの良識に対して、手探りで不安だけど、抗うことは可能なんだよ、楽しいんだよ、と言うのが坂口氏の仕事だ。

「現実派」の人たちになぜ坂口氏の話が通じないかと言えば、彼らは先にマクロな「社会」を前提として語っているからだ。彼らがその場所から語る限り、坂口氏の話は全く通じない。その意味で坂口氏には勝ち目がない。

彼らが負けようがない位置から話しているとすれば、坂口氏は別のアプローチを取る以外に方法はない。 私は「社会派」なのではなく「あなたが死なずに生きていくことができるように。」ということを素朴に考えているのだ、ということをただひたすら伝えまくるしかないのではないだろうか。

彼はすでにそのことを十分にやっているけれど、今回のアシタスイッチだけ見た人はそれがわからないだろう。 坂口氏はマクロな社会と対決するという姿勢ではなく、そのような檻のような前提のある社会からあぶれた人たちを助けたいと思っており、それが結果的に社会貢献になると信じている人だと思う。

彼がやっている一見奇抜で風変わりに見えることが、実際のところは、すごく真っ当で普通のことなんだという感覚が多くの人に伝われば、彼がやっていることはひとまず成功だ。

しかし、すごく真っ当で普通のことをそのまま表現しては芸術ではないし、抵抗あっての芸術である。芸術はあえて抵抗装置を用意することによって見る者のふるい分けをする。彼の最近の活動にはあらゆるところできしきしと抵抗が音を立てているのが聞こえる。その意味ではやはり彼がやっていることは芸術なのだと思う。


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by terakoyanet | 2012-07-09 12:51 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)