寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2017年 06月 19日

テスト前に勉強をしないのは「やる気」の問題ではない。

1学期期末考査対策真っ只中の子どもたち。
加速度を増して学習に没頭している子がいる一方で、頑張っているみんなを横目で見ながらあまり何もやっていないように見える子もいます。

大切なテストの前に何もやっていない子を見ると、ご家族も心配になったり焦ったりすることと思います。

しかし、テスト前になってもなかなか机について勉強できない子どもたちと話していて、最近つくづくと思うことは、彼らは必ずしも「やる気」がないわけではないということです。彼らは勉強をやっている子と同程度に「勉強やったほうがいいよね」と思っているけれど、それが行動に移すことができていません。これは実は習慣の問題なんです。勉強の習慣がある子は、やろうと思ったらすぐに実行できます。でも、習慣がない子たちは、ある子たちと同程度の「やる気」では行動に移すことができないんです。

だから、習慣がない子たちに「あなたはやる気がない」と叱責してもなかなかうまくいきません。
他の子と同程度に「やる気」があったかもしれないのに、「やる気」自体を否定されて、むしろ動けなくなるかもしれません。

習慣というのは数日でつくものではありません。
だから、この子はこういうふうに育ったのねーと見守るしかないところがあります。

塾は、習慣をつけるきっかけをつくる場所だと心得て、子どもたちにあらゆる働きかけを試みていきたいと思います。


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by terakoyanet | 2017-06-19 11:59 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 13日

子ども道

今日も風の音を聞きながら大濠公園を通って帰宅しています。
夜の現代国語の授業で井上靖さんの文章を読みました。
幼いと
き、子どもたち同士で遊ぶときに通った子ども道。
せまく
て平坦でなくて決して通りやすくはないから、大人は決して使わない子ども道。大人から見たらどこがいいのかさっぱりわからないけれど、なぜか子どもたちに選ばれる子ども道。

あぁ、確かに、私の記憶の一隅にも在る子ども道。近くの家の裏には鬱蒼とした雑木林があって、昼間でもそこを歩くのは怖い。でも抜けると細い川があって、それを飛び越えたとたん明るい道に出て、しかもそこは仲のいいヒロシくんの家のすぐそばだった。
ある道は、人の家の庭を通るか
らやっかいだった。誰よ〜?!と怒鳴り声が聞こえたときには心臓が飛び出るほど怖かった。

子ども道は冒険であり陰翳であり季節感そのものだった。
子ども道で味わった夏ほど鮮明な夏は、もうきっと二度と来
ないのだと思う。

集団下校、スクールバス、町の死角をなくす取り組み。
便
利と安全を引き換えに、私たちが子どもから奪ったものは確かにあって、そうやって奪ってしまったことくらいは忘れないようにしたいです。


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※ヒロシくんは仮名です。


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by terakoyanet | 2017-06-13 00:17 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 29日

苦手意識を全体化しないこと。

「私は数学が苦手」と言う子がいます。

しかしその子を教えてみると、その子は計算は抜群にできる。できないのは主に図形とグラフの問題だったりすることがあります。
この子の場合、苦手なのは図形の問題とグラフの問題であり、数学全般ではありません。
ですから、このような子に周りが「数学が苦手だね」と言うべきではありません。
「あなたは計算ができるんだから数学が苦手なわけではないけれど、図形とグラフの問題で躓くことがあるね。」と丁寧に話してあげる必要があります。


苦手な単元や内容を分析しないまま、「数学が苦手」と苦手意識を全体化することは大変危険です。こんなことをしていると、名実ともに「数学が苦手」な子ができあがってしまうのがオチです。「数学」と聞いただけでその子は怯んでしまうようになるのです。でも、「数学が苦手」と思っている子にも、得意な分野、苦手な分野があるはずです。どんなに「英語が苦手」と思っている子だって、その子独自の得意なところを見つけてあげることは、それほど難しいことではありません。子どもが自分で得意なところを見つけられないときは、指導する人がそこを発見してあげることで苦手意識の全体化を防いであげることが、学力向上のためには必要です。


苦手意識を全体化せず、苦手な内容を吟味すること、これが本人にとっても周囲の指導者や保護者にとっても、とても大切です。



しかし、このような全体化は、時にはいい作用をもたらすことがあります。

歴史が大好きな子がいます。その子が興味があるのは「歴史」、しかも「日本史」の「戦国時代」であったりします。しかし、その子は戦国時代が好きだからいい点が取れる、そうすると、歴史全体も好きな気がして歴史ならいつでも点数が取れるようになる、さらに歴史は社会科の一部だから、地理でも公民でも社会なら点数が取れるようになる、そういうことはよくあります。

これは良い全体化の例です。


以上のように、全体化自体は必ずしも悪いことではありませんが、それが負の面に働きそうなときは、そこを制御することが大切だと思います。


(*先日、中2のある子と話しているときに、以上のことを痛感することがあったので、2008年の同名タイトルの記事をリニューアルしました。)


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by terakoyanet | 2017-04-29 08:11 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 02月 27日

当仁中1年学年末テスト、本校中1生の成績|粘り強い指導を。

学年の総決算、学年末テスト。
中1の平均点(速報値)を発表します。

先日、塾内平均点は400点超え確実!とお伝えしていましたが、声なき生徒の声を聞いていませんでした。(すみません。)
過去最高の得点を取った生徒が多数いた一方で、数学など1教科だけ撃沈した・・・という生徒たちの声が、少し遅れて小さな声で届きました。昨日も定期テストで得点を取れなかった悔しさからまだ抜け出せない表情の子もいました。一方で、特進クラスは見事、平均450点越えを果たしました。今回はこれまでで最も上位層と下位層の結果の差が大きいテストになりました。


◇当仁中3学期学年末(中1) 本校生平均点(2名不明/集団授業受講者)

国語 77.8
数学 67.0
社会 83.6
理科 73.2
英語 90.0
5科総合 391.6




◇当仁中3学期学年末(中1) 本校生特進クラス平均点

国語 88.4
数学 85.6
社会 93.2
理科 85.6
英語 98.0
5科総合 450.8




今回のテストは特進クラス生が特に圧倒的な力を見せました。
平均点が低い数学でも、多数の生徒が90点台後半を叩き出しています。

好成績を取る生徒たちは、何をやれば点数を取れるかということがクリアに見えています。
そうでない生徒たちは、これをやれば点数を取れるというイメージに靄がかかっていて、一歩進もうにも、足もとがおぼつきません。

視界良好であれば誰だって快活に歩くことができます。でも視界が不明瞭なとき、人は思わず尻込みしてしまって、前になかなか足を進めることができません。
やる気がない、と言ってしまうのは簡単ですが、単にいまの自分に自身が持てなくて、何かと躊躇したり、気おくれしたり、怖気づいたりと、ただ前に進むのが怖いと思っている子もいます。そういう子たちに道しるべを示すことこそ、私たちの仕事です。時間はかかりますが、粘り強くやっていきたいと思います。



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by terakoyanet | 2017-02-27 12:09 | 生徒のがんばり(テスト結果等) | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 27日

苦しいけれど、かけがえのない日々

今日は夕方から授業を挟んで24時近くまで、中3の生徒さん、保護者様と、面談やお電話でたくさんお話をしました。また、面談を希望した11名の生徒と、現状と今後の受験について話しました。とても真剣に話をしました。緊張で涙ぐんている子もいましたし、手元が心なしか震えて見える子もいました。成績が伸びた子が素直に喜んでいる表情を見て、私も本当にうれしくなりました。

今日の授業では、授業中に行ったテスト結果を受けて、落ち込んで泣き出してしまう生徒もいました。
そして、その生徒の背中をさすって励ましているのは、いまのところ自身の受験が決してうまくいっているわけではない別の生徒でした。
泣いた生徒は、「大丈夫です。心配かけてすみませんでした。」と丁寧に挨拶をして帰りました。

受験を通して、その苦しみを通して、友情を育んでいる生徒たちを見ると、こみ上げるものがあります。
皆の願いが叶いますように。そのための努力が滞りないものになりますように。毎日祈っています。

今日は中3にいろいろな話をしました。受験で良い結果が出なかった日に頑張って来た生徒もいました。(いろんな話をしたし、受験で良い結果が出た子とそうでない子がいっしょの空間で一生懸命勉強する特別な日だったから、全員そろってほしかったのですが、そうならなかったのは残念です。)

私立入試が目前なのは当然として、公立入試まであと40日になりました。
この40日の勉強のしかたで合否が決まる。
ガッツや根性も大切だけど、勉強はやり方だよ。

自分の焦る気持ちをとりあえず抑え込むだけの意味のない作業的時間を過ごすことなく、
きちんとひとつひとつ覚えること、理解すること。
苦しいことをいとわずに、実際に問題が解けるようになるまでこだわって勉強すること。

苦しいけど、かけがえのない日々です。
大切に過ごしてください。


今日、保護者様方とお話をしていて思いました。
ご家族にとっても、受験というのは本当にかけがえのない日々ですね。

子どもの歓喜と落胆を傍で見ながら、感情が揺さぶられる日々。
子どもがふとした瞬間に見せる、真面目で正直な表情を愛おしく思う日々。
その日々は慌ただしいけれども、決してこれからもずっと続くわけではない。
人生で我が子たちと過ごす時間はこうやって知らず知らずのうちに過ぎていくのだな、ふとそんなことを感じながら、毎日を大切に過ごしていらっしゃるのだろうと思います。

15歳の彼らは、高校受験を通して初めて自分自身と真剣に向き合います。自分の将来への希望を胸に宿し、時に自分の将来について迷い、嘆息します。そういう我が子を見て、親は、ついこの前まであんなに幼かったはずの我が子が、着実に「自立」への準備をしていることを知るでしょう。

15歳の彼らの旅立ちには、親の心に嬉しさとともに特別な寂しさが付きまといます。
それは、この15歳という年齢が、まさに子どもたちの心が「自立」していく時期と重なるからです。

高校受験は、子どもたちの「自立」をより頼もしいものにします。
この春のある日、受験を終えた子どもとそれを見守るご家族が、苦しかったけれど、かけがえのない日々だったね。そのことをふと実感する瞬間が訪れますように。




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by terakoyanet | 2017-01-27 03:08 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 04日

親の感情と子育て

2カ月以上続いた三者面談がようやくほぼ終わりました。
ご参加いただいたご家庭の皆さま、ありがとうございました!

面談のときにした約束は、その後果たせていますでしょうか。
(めちゃめちゃ張り切っていたのに少し緩んできた子もいます。)

面談のときに、子どもの成績を伸ばすために、親はどこまで干渉していいのか、というご質問をいろいろなご家庭からいただきました。

その回答はご家庭によって異なる、という前提がありますので、とても難しい質問だと思いつつ、これは共通して言えるのではないかと思うことについて少しお話しします。



私は大学時代、妹の家庭教師をしていました。
兄弟だったらけんかになりそうなところなのですが、私自身、家族というフィルターで妹を見ることなく、他の家庭教師の子(当時7~8名の家庭教師をしていたのです)を教えるときと同じように指導することができました。
その結果、妹の成績は伸び、希望の高校に合格しました。

私はここで何が言いたいのかというと、親子間、家族間で教えるときの最大の障害はその関係性だということです。
親は子供に感情的になりすぎる。子どもは親に甘えすぎる。これで 教える-教えられる の関係が成立するわけがないのです。

以前、親が子供を叱るときのポイントについてまとめた記事がありますので、よければご参照ください。

親が子どもにきちんと何かを伝えたいのであれば、その感情的な関係をコントロールすべきです。
ときに感情的に「怒る」ことで、子どもに切実に伝わることもあるでしょう。
しかし、感情的に「叱る」ことは避けられなければなりません。

子どもに指導する際も、いかに子どもを、自分のさまざまな感情と切り離されて独立した人格として認めたうえで対話ができるか、そしてそれを一貫性を保ちながら継続できるか。子どもに伝わるかどうかはそこにかかっていると思います。このことは私自身、日々子どもたちと接しながらいつも心に留めていることです。

そんなことは親子では難しい。確かに難しいのですが、自らの心を振り返り、その感情をコントロールできるようになることは、きっと子どもへの大きなギフトになります。


―――――


いまある学年の子どもたちの間で、寺子屋をやめた生徒たちが成績を急激に下げていることが話題に上っています。

うちの塾においても、どうしても年間に数人だけ途中退塾する生徒が出ます。
そのような子が、そのあと成績を急落させるという話は、毎年耳にすることです。

でもこれは別にうちの塾だけのことではなく、成績を伸ばすスキルがある塾ならば当然のことで、やめたら落ちるに決まっています。
塾をやめる子というのは、「成績が上がらないから」という理由でやめることが多いのですが、でも「成績が上がらない子」というのは、いま塾に来ている環境で、彼らが自分のペースで努力できる範囲で勉強して、いまの成績なのですから、塾という武器がなくなると、よほど、それこそ2倍も3倍も自分自身で真剣に取り組まない限り、成績が下がるのは当たり前のことです。それが難しいからみんな塾に通って、できるだけ効率的に学習を進めているのです。

そもそも「成績が上がらない」という判断を親がすること自体危険をはらんでいます。(よほど毎日つきっきりで子どもの指導をしていたら別ですが。) なぜかと言えば、成績というのは相対的なものであって、成績が上がっていないから、その子がいま悪い状況とは全く限らないからです。

塾をやめるとき、それが本人の判断であれば、そのあとうまくいくことも少しはあるのですが、それが親の判断の場合、勝算は低いです。その判断は感情的になされており、本当にその子に寄り添ったものであることが少ないからです。


―――――

子育てというのは親の感情が絡むから難しい。
でもどうか、そういう感情を持つ自己を責めることがありませんように。
その感情自体は自然なもので、それは他のさまざまな感情と結びついている大切なもの。
自分についても、子どもについても、できるだけフラットに穏やかな判断ができるよう、考えていきたいですね。

私自身、修行の日々です。



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by terakoyanet | 2016-07-04 16:25 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 15日

大人として扱うことの難しさ

以下の文章は特定のご家庭に向けて書いた文章ではありません。
それでも、もしかしたら、心当たりのある一部のご家庭の悩みを深めてしまうかもしれない。
そう思うと、一昨日に書いたこの記事をアップできずにいました。

でも、大切なのは家族内だけでなく、大人どうしで連携していくこと、と思い直し、記事をアップすることにしました。私自身にとっても、以下の問題は決して他人事ではなく、子どもたちと触れ合う毎日のなかでいつも考えあぐねていることです。

もし、お子さんの精神面で不安のあることがあれば、遠慮なくご相談ください。
一概には言えませんが、きっと一挙に解決する、治癒するということはありません。でも周囲の大人の継続的な配慮をきっかけに、本人がもともともっていた力によって快方に向かうことはあります。


―――


十年前より精神的に脆い子が増えた。そう感じることが多い。
感じる、というよりは実際に頭の中に浮かぶ数を数えてみると、これはおそらく実際のことだ。

いろんな子がいるけれど、精神的に脆い子の親は「理解がある」ことがけっこう多い。これは逆説的な感じもするけれど、そういう子の親は、子どものことを本当に考えているし、一人前の人格として子を認めている、そういうふうに見える親が案外多いのだ。

でも昨日妻と話していてふと思ったのは、「理解がある」親が精神的に脆い子をつくってしまっているのではないか、ということ。「理解がある」親というのは繊細に子どものことを考えている。でも、子どもを眼差すときに、繊細な自分の鏡像として、子どもを見ているのかもしれない。繊細なものとして扱われた子どもは、繊細にならざるをえないのではないか、しかも、他の子たちより幾分早めに「大人」であることを強いられているのではないか、そんなことを考える。

子どもが子どもとして扱われることに、私は子ども時代から強い違和感を感じて生きてきたけれど、でも子どもが大人として扱われるのは、案外残酷なことなのかもしれないと、この歳になってようやく気づきつつある。

親であれば、子どもを自分の鏡像として見ることは、ほとんど避けられないことだが、でも、子どもの話は子ども固有のこととして ―いくらそれが自分の慰みにならなくても― 聞く耳を持たなければ、子どもの痛みは増してしまうかもしれない。「思えば届く」ではないのだ。





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by terakoyanet | 2016-01-15 09:53 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2014年 10月 08日

記念受験とカクレ記念受験

受かる見込みが極めて薄いのにかかわらず受験することを「記念受験」といいます。
受ける本人もそれを見守る保護者も、現在の実力が到底及ばないことを認めながらも、万が一の希望を胸に受験する。こういったことは大学受験、高校受験、中学受験において、全国津々浦々で見られる現象です。

私はこういうことはあってもいいと思います。
本人自身が、自分の力不足を知りながら、認めながらも、心の区切りをつけるために受験するのですから。




しかし、私が大問題だと思うのが、「カクレ記念受験」です。
このことについて、昨日、ある保護者様とお話しする機会を得たので、ここで書くつもりになったのですが、「カクレ記念受験」は、例えば地元の近辺で言えば、修猷館受験者が多い百道中、高取中、福教大附属中に特に多い現象です。

これらの中学は前述の通り、修猷館受験者がとても多いです。
修猷館を受けること自体がひとつのステータスになっていると言えましょう。
だから、子どもたちは、周りに流されて、もしくはそのステータス欲しさに「修猷館受ける」と言います。この「修猷館受ける」と言いだす層は、合格ライン前後の成績を持つ上位層だけでなく、各学校の中間層、下位層にまで及びます。

合格する力が全くもって不足している子どもたちは、きっと頭の隅でそのことを知っています。
だから、彼らは自身の力が志望校にいかに届いていないかという現実を直視することを嫌います。
彼らは、なんとなく受験独特の雰囲気を味わいつつ、万が一受かるかもしれない志望校を皆といっしょに受験できれば、それでいいのです。合格発表の日、彼らは不合格の結果を見て、現実はやはり甘くないということを(再)認識するでしょう。しかし、一方で彼らはその日に、「修猷館不合格者」という名誉をもらいます。この名誉は、本人達にとっては、他校の「合格」よりも価値のあるものかもしれないのです。(このような言い方をすると角が立ってしまうのですが、彼らはそもそも修猷館より1ランク、2ランク難易度が低い学校であっても合格できていたかわかならないのですから、修猷館の「不合格」は彼らにとっては上出来の結果です。)

この「カクレ記念受験」は本人だけの問題ならまだよいのですが、その側にいるお母さんが本人と結託してそれの実行者となっている場合があります。チラチラと垣間見る本人の成績から、修猷館合格はかなり厳しいことが頭の隅でわかっていても、何かに託けて修猷館を受けるという選択肢のみを本人に提示し続けるのです。(こんなとき、大抵お父さんは蚊帳の外です。本人が頑張るって言うんなら最後まで頑張らせたら、と素朴に思っている方が多いです。もしくは知らんぷりをしているだけかもしれませんが。) そのようなお母さん方が「私はあなたがどこに行ってもいいと思っているのよ。」と言うとき、それは実質「あなたは修猷館に行くべきなのよ。でなければ私はあなたがどうなっても知らないからね。」という強迫的な意味を含んでいます。
本人がそんなお母さんに対して反発することができる関係ならよいのですが、そうでない場合には、本人はますます修猷館以外の選択肢を考えることができなくなります。本人がお母様と共依存関係にある場合には事態は深刻になり、本人は自身の成績をあらゆる方法で偽装(カンニング、得点のごまかしなど)してまで、お母様の願望に応えようと必死になります。(これを傍から見ているのはとてもつらいです。)

「カクレ記念受験」がなぜ問題かと言えば、その根っこがまやかしであり、虚偽であるからです。
彼にどれだけヒアリングをしても彼の口から「実は諦めてる」という言葉を聞き出すことはできないでしょう。私たちは怖ろしいことに自分自身の脳内を騙すことができます。彼自身、「諦めている」ことを意識せずに日々の生活を過ごしているのですから、「諦めている」なんて言葉を彼から聞くことができるわけがないのです。
しかし、それでも彼自身は自身の脳内が「まやかし」であることを知っているのです。知っているからこそ頑張ることができないのです。真剣に現実と向き合うことなく、そのまま受験日を迎えてしまうのです。



人は程度の差こそあれ、「まやかし」の中で生きていると言っても過言ではありません。
そういった弱さ自体が、人が生きていく営みにおける大切な要素です。

しかし、人生の真剣勝負ができる僅かな機会である受験を、それを傍で見守る者として、まやかしのまま通り過ぎてほしくはないのです。
しかも、そのまやかしに、その子にとって一番大切な親が関わっていることは、その子にとって、大きな損失になります。それは一時のステータスを得る代償としてはあまりに大きなものです。


修猷館受験者800余名のうち、100~200名は、実力が全く不足しているのに受験する生徒、私が述べたところの記念受験、もしくはカクレ記念受験の生徒たちです。


人の名誉が関わるところにはさまざまな歪みが生じます。
今回書いたことは、受験にまつわるひとつの現象として、心の中に携えていただければと存じます。



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by terakoyanet | 2014-10-08 12:12 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(4)
2014年 09月 18日

子どもの自立 -親の不安を子に伝播させないこと-

少し前、といってももう4・5年前のことになるでしょうか。笑うと赤い頬がかわいらしい男の子だったのですが、その子が、塾に来るときに表情を曇らせている。大丈夫かなと思っていると、それが何週間も続く。1ヶ月経ってもその状況が続く。その間に学校の定期テストがあったのですが、それを境にますます表情が暗くなっているのがわかる。本人にたずねても、全く問題ない、大丈夫と言う。そんなことが続いていました。

そうしているうちに、11月になり、その子の三者面談があり、そこでそうかとわかったことがありました。
お母さまがこのようにお話しなさいました。「私がいくら言ってもこの子が勉強しないから、もう大丈夫かと不安で。」「でもテスト前は彼なりにやってたみたいで、でも結果が悪くて。きっとこの子、やり方が悪いんですよ。勉強のやり方の基本さえもわかっていないなんて、もうこの子この先どうなっていくか心配で。」「わからないなら先生に質問してきなさいって言ったんですよ。でも質問しない。もう、そんなんだったら先生に見放されるわよって、いつも私この子に言ってるんですよ。」「先生、この子が確実に伸びるための確実な方法を教えて下さい。確実な方法がないなら、私が先生にこの子を預けている意味はないと思うんです。このまま先生のところに預けていて、本当に大丈夫かしらと不安で不安で。」「あんたこのまま寺子屋続けて大丈夫なの?って聞くんですよ。そしたらこの子黙ってて、私、ますます心配になって。」

お母様は不安と心配で胸中がいっぱいいっぱいでした。
私は彼が塾で見せる、何とも言えない暗澹たる表情の由来はここにあると思いました。

お母様はとても熱心な方で、子どもさんのことを一生懸命考えていらっしゃいました。
物腰が柔らかく、落ち着いた話し方をする素敵な方でした。

しかし、真面目で子どもの事を何よりも優先に考えるお母様の不安と心配は、傍にたたずむ赤い頬の彼の心にそのまま巣食っていました。彼は何をやっても肯定感のようなものを感じることができず、勉強の話となると、うつむくことしかできませんでした。

子どもに愛情をそそぐ素敵なお母様なので、きっと彼はお母様のことが大好きです。でもだからこそ、彼はお母様に何も言えず、お母様が不安と言うのなら、そうなのかな、僕はこのまま勉強しても、このまま塾に行っていてもだめなのかな。日々そう感じながら、でも他の道がないからうちの教室に来ている。彼のこれまでの表情と、お母様を前にした彼の様子から、私はそう思いました。

親の不安は子に伝播します。私がここで「伝播」という、やや大仰な言葉を使ったのは、親の不安は、子の心の底に一旦沈着してしまうと、それが親が思うよりずっと長い期間、その子の心にネガティブな影響を与え続けるからです。子の心に広がる「不安」は彼の行動を縛ります。彼は自身に対する、勉強に対する、塾に対する、否定的な感情から抜け出すことができません。何も信じることができない彼は、何をやっても中途半端で空回りしてしまうのです。

その後、いつも真剣なお母様のお話しを度々拝聴しながら、私の方からは、その子が存外に頑張っていること、きっとうまくいくということを伝えながら、時が過ぎていきました。
彼は中3になり、あるテストでいきなり高得点をとり、それを境に笑顔も増え、その頃と時を同じくして周りに仲の良い友人も増え、夏以降は高邁な努力を続け、志望校に合格するに至りました。



親御さんはよくおっしゃいます。「私の言うことはきかないから、どうぞ先生、この子にビシっと言ってやってください。」
確かに子どもは親の言うことを聞かない。他人の言うことはよく聞く。これは一つの真実です。

しかし、それを超えた一つの真実は、子は親の言うことは聞かないが、親の言わないこと(=親の心の中の本音)は誰よりも聞いている、ということです。
子は知っているのです。親が言うタテマエよりも、親が言わないホンネに真(まこと)があるということを。

だから、親が本気で心配をしていると、親が誰かに対して不信を示していると、子はその心配に同調するし、その誰かを信じなくなります。

親は子に対し、不安を伝えない努力が必要です。
殊に、子に対する不安が募るときには、子はしょせん私とは別人格であり、私そのものの問題ではない、という諦念のようなものを持つことが必要なのです。そうすることで、子は自分のことは自分で考えなければならないということを学びます。親のためではなく、自分自身のために人生を切り拓く術を身につけていきます。そしてそれによってのみ子は「自立」を果たし、大人となっていくのだと私は考えています。


※上記の内容は、モデルを特定されないように、一部、フィクションを交えてお話しをしています。ご了承ください。


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by terakoyanet | 2014-09-18 23:37 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2013年 09月 20日

うちの母のよかったところ

昨夜、卒業生で現在京大生のOくんと会いました。(inアトリエてらた)
彼は事前にわざとしこんでるんじゃないかと思うくらい面白いトピックを用意して私の前に現れるのですが、昨日もまた完熟のネタを披露してくれました。きゅっと搾った濃縮感のある時間。卒業生というより、私の人生の友人として今後も機会あるごとに会って話したいなと思っています。

彼はいま勉学の傍ら学習塾で働いており、生徒や保護者と接する日々。
そんな彼の口から出てきた事柄のなかで印象的だったのが、彼自身の母について語ったときの言葉。

「親はすぐ自分の不安を打ち消すために子どもに「大丈夫?」とか声掛けするけど、うちはそういうのがなかったのがよかった。」


私は以前、河合隼雄氏と毛利子来氏の対談を引用し、次のように書きました。



―――――


河合:「(子どもの木登りは、先生が)すぐに「もう下りなさい」とか、「それ危ない」とか言うから落ちるんですね(笑)。黙って見ていたら落ちないんだけれども。」

毛利:「そうそう。あれは大人が我慢できんのですね。大人が見ておってハラハラ、ドキドキに耐えられないものだから、「やめなさい」とか言って下ろさせちまうんですね。だからあれは子どものためと思ってるけど、自分の心配をとるため、自分のため。」



木登りをする子どもたち。それを見ている大人たち。
子どもたちは意気揚々と自分の好奇心を発揮して動き回っている。
しかし、それに我慢できない大人たち。大人は自分の不安を消去するために、子どもたちの活動を妨げる。その結果、子どもたちの足場を危うくする。


大人は本当に子どもより賢いのでしょうか。常に子ども以上の真理を握っているのでしょうか。
そうではないでしょう。大人は一人ひとりがかよわい人間であり、自分のそのときの感情や都合で動いてしまうものです。そのために、かわいいわが子の足場をあやうくすることが多々あるのです。

ですから、わたしたち大人は自分の愚かさを知ることが大切です。
そして、本当に子どものためになることは何か、ということに耳を澄ます必要があります。
とても難しいことです。木登りをしている子どもの前で我慢するのはとっても大変なことです。

しかし、その困難を知った上で子どもと接することが、きっと子どもの幸せにつながるだろうと感じます。



――――



「大丈夫?」と声をかけるときも、「勉強しなさい」と言うときも、「あなたのためを思って言っているのよ」と言うときも、いつでも親は「子どものことでこんなに感情的になっている私は何?」と自問することが大切です。

自己本位なのは決して恥ずべきことではありません。
ただし、自己本位であることに気づかずに、自己の欲求を他人(この場合は子ども)に押しつける行為は、他人(この場合は子ども)の尊厳を決定的に傷つけることがあるということを知ることで、私たちはそれを回避することができます。

これまでに述べたことは、子どもはなぜ親(特に母親)の言うことは聞かずに、第三者の言うことなら聞くのかという疑問に対する答えに直結します。

親は子どものためを思っているからこそ声をかける。これは大抵の場合、疑うべくもなく真実です。
しかし、愛情というのはこの世でもっとも自己本位な感情です。でも愛は盲目。私たちはそのことを忘れて相手にも同じものを求めやすい。親はどこかで私のこの気持ち、子に伝わるはず、伝わるべきだと思っている。

親が子どもに声を掛けるときには、そこに愛情があればあるほど自己本位になりやすいのです。
親が「あなたのため」と言えば言うほど、子はその声掛けを押し売りと感じ、反発するという悪循環。

一方で、第三者が「あなたのため」ということを伝えやすいのは、そこに(自己本位な)愛情がないから。
第三者は身軽に「私があなたの立場だったら」と、自分を相手の立場に置き換えて、いますべきことは何かということを相手に寄り添って提案することができる。
逆説的ですが、相手に寄り添うことは、愛情がありすぎるよりも、そうでないほうがやりやすいのです。

ほっといても子は育つというけれども、これは、子に愛情の押し売りをしない、ということの言い換えです。
何も「大丈夫?」「勉強しなさい」と声掛けをすること自体が悪いのではありません。
そのときに自身の心を点検しながら、声掛けが「過度」にならないように注意を払うことが、子どもにメッセージを伝えるために大切なことです。


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by terakoyanet | 2013-09-20 13:11 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)