寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

terakoyant.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

タグ:教育のこと ( 60 ) タグの人気記事


2018年 02月 06日

いじりといじめは別物ではない。


いじめはダメだけど、いじりはよい。
そもそも、その認識が間違っています。

いじられている子どもがヘラヘラとした笑顔を見せていて、それで周りの大人が安心しているとしたら、大間違いです。
その笑顔は、その子にとって、自尊心の最後の砦かもしれないんです。

いじりだからと見過ごしてはいけません。
いじりの多くは、いじめと同じく一定のヒエラルキー・上下関係に依存した、すごく一方的な暴力です。

だから、バラエティ番組でたびたび登場するいじりが私は好きではありません。
弱者いじりをする人たちを私は見ていられません。

こういうことを言うと、そういうことを言っている人のほうが差別意識があるのだ、という人がいます。

でも、違うんです。そうではなくて、あなたが差別に対して鈍感なんです。
自分自身が差別される立場に転落する、その恐ろしさを知らないんです。


いつも天真爛漫な子どもたち。
目の前にいる友達が大好きだから、思わずお互いに悪口を言い合うじゃれ合いをいつも目にします。
それはとてもほほえましくて、見ているだけでこちらまでうれしくなるほど。

相思相愛のじゃれ合いと、いじりは、明らかに違います。(でも、じゃれ合いというのは、一時的な関係性に依存した脆弱なものということは覚えておかなくてはいけません。いつだっていじり、いじめに転落しうるから。)
テレビで芸人たちが展開するいじりは、いくら本人たちが「そこに愛があるから」と言ったところで、そんなものは言い訳にならない構造があります。他より劣る人、いびつな人、空気が読めない人をあざ笑っているでしょう。

繰り返しますが、いじめかいじりかというのは表面的には違っていても、その構造は同じです。
いじりもいじめの一種なんです。
このことに大人が敏感になっていかないと、けっして子どもたちのいじめの問題は是正されません。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-02-06 10:24 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 01日

カタログ的学習の弊害

先週のDCS(ディスカッション)では、熊大文学部の小論文(2017年)で出題された、内田樹さんの『昭和のエートス』を扱いました。
そこには次のような文章があります。


子どもたちはこれから学ぶことになる教科について、それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない。しばしば「学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない」という当の事実こそが彼らがそれを学ばなければならない理由だからである。
<中略>
学ぶものは自分が学ぶことの意味を適切に言うことができない。だからこそ学ばなければならないのである。
教育はそのように順逆が転倒したかたちで構造化されている。
教育をこれから受けようと思う人間は、カタログを拡げて、自分が受ける教育について時空を超えて俯瞰するような視点(ユビキタス的視点)に立つべきではない。子どもにそれを許せば、教育はその裁量の教育的意義を失ってしまうであろう。

内田樹『昭和のエートス』


これを読んだ鋭敏な高校生たちは、
「よく、何のために勉強するのか、とかいう学生が言いがちな質問に対する完全な回答がここにある」
「子どもがこれを理解するというより、教育をする大人がこれをどれだけ理解しているのか」

そういう話をしていました。

この内田氏の指摘はあまりに重要で、現代の教育に「失敗」している人たちの多くが陥りやすい罠について書かれていると感じます。

内田氏が同じ文章で指摘するとおり、小学一年生は、自分が「国語」を学ぶ理由を適切な日本語で説明することができません。「算数」の合理性について、数学的論理に基づいて述べることができません。しかし、むしろそのこと自体が、小学生が「国語」と「算数」を学ぶ理由なのです。

現在、大人がそのことを理解していないために、子どもの教育にさまざまな弊害が生じています。

まず、いまの大人たちは、「子どもの意見を尊重して」という言い方をしますが、そのときに、子どもが本当に自分なりの理解をしてその選択をしているかという点について考えることを等閑(なおざり)にしがちです。むしろ、自分自身もよくわからないから、子どもの意見を尊重するこという口実によって自分自身の責任を回避するという傾向が見られます。子どもの意思の赴くままに自然に育てるというのは、子どもに親の意識が集中しがちな現代においてとても大切な考え方ですが、一方で、現代の日本は、かつての日本の農村社会のような、子どもの生命力を喚起するような自然環境を失っていますし、子どもに薫陶を与える生き字引のような長老のような存在もおらず、放っておくだけで子どもは生きるための力を身につけることができると考えるのは、やや楽観的すぎるかもしれません。子どもは勝手に育つといいますが、適切な手入れがなければ十分に育たないのです。だから、大人がその手入れをさぼってはいけないと思うのです。

別の話になります。小・中学校教育において、重要視されている「調べ学習」ですが、なぜ科学を学ぶのかを知らない子どもたち、歴史を学ぶのかを知らない子どもたちに対して「調べ学習」を押し付けることは、(全くではないにせよ)あまり意味がないと言わざるをえません。子どもたちは、調べるための視点とその必然を理解できていないのですから、そういう子たちに調べることをやらせてみたところで、大人の一時的な評価を得るために、参考書のまねごとをするような空疎な内容になるのが関の山です。そんなことをするよりも、子どもを惹きつけるような、それは面白いと膝を打つような話を通して、子どもたちに知識と知恵を吸収させることが大事です。「調べ学習」ができるようになる、というのは結果的にそうなるはずなのに、はじめから調べ学習をやらせるなんて、生まれたての鳥に、いいから飛んでみろといきなり巣の中から外へ放り出すようなもので、うまくいくわけがないのです。高校や大学も、アクティブ・ラーニングなんかやるより、いまやっている勉強が、実は自分自身のことだ、自分の人生と確かに繋がっている、そう感じさせる授業ができれば、子どもたちは勝手にアクティブに動き始めるんです。本当はそれが子どもの自発性を伸ばすということであり、教育の力というものではないでしょうか。

最後に、私が日ごろ実感していることについての話です。
小学校のころは優秀だったのに、中学以降は伸び悩む、そういう子たちがいます。
そういう子たちの中には、小さいころにカタログ的学習を身につけた弊害がはっきりと見える子がいます。
勉強の世界というのは、私たちの生存の周りに無限に拡がっているものなのですが、小さいころからカタログを与えられた子どもというのはそのことに対する感度が抜け落ちてしまいます。彼らは、勉強はカタログから選ぶものと思っていて、カタログ外に世界が拡がっていることを知りません。さらにカタログの中から自分が楽できるもの(それが仮に他のものに比べれば相対的に興味があるものだとしても)だけを選ぶ癖がついてしまっています。そういう子たちは、カタログ外のことが目の前に現れても、それはムダで意味がないと半ば無意識に捨象する癖がついていますから、中学以降、カタログに捉われずに新しい知識とあらゆる事象とを縦横無尽に結び付けていく他の子に比べ、どうしても応用的な思考力が劣ります。数学的、言語的に鋭い反射能力を示す子はたくさんいますが、それがその子にとっての生きる思考になっていないのです。



それにしても、教育の問題について、高校生と話すのはエキサイティングです。
教育の問題を話しているようで、どうしても、自分のこれからの生き延び方についての話になるのが、とても面白いです。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-02-01 03:32 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 24日

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

昨日の中3Sクラスで登場したこのことわざの意味は、

「馬を水のところに連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない。」

私たち指導者たちもそうです。
子どもたちを水のある場所に連れて行くことはできます。
でも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

よい個別指導の教師は、子どもの傍にいますから、その水を口元まで運んであげることができます。
よい集団授業の教師は、その子どものすぐ近くに、水を飲んでいる別の子どもがいることを生かして、その子が自分ひとりで水を飲む力をつけることを促すことができます。

それでも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

昨日、このことわざがでてきたとき、子どもたちにその話をしました。
受験に必要な知識の99.8%を教え終わったいまなら、きっと伝わると思ったからです。

この時期の受験生たちは、自分の本質的な弱点にいよいよ向き合っています。
そんな彼らを見て、その真摯さに胸を打たれるし、彼らは受験を通して、ちゃんと成長していると感じるのです。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-01-24 13:04 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 22日

「安楽」を追い求めること

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、いつだって、他人への寛容が失われているし、自分の心をちゃんと見つめることも、自分自身を大切にすることも、できないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 12月 30日

高校の朝課外のこと。(西日本新聞より)

数日前から、昨年こちらに書いた「朝課外」という名の強制授業は選択制にすべき。の記事のアクセスが急騰しています。

12月27日西日本新聞の朝刊1面に載った、この記事の影響だと思われます。
d0116009_08400486.jpg
この記事を書いた大坪記者から、本校と、近隣の進学校(公立)に通う本校のAさん(記事内の高校1年女子)も取材を受けました。
Aさんが「朝課外は本当に不要」「意味ない」「朝課外が必要と思っている人とかほぼいない」とはっきり言っていたことが、印象的でした。(そこまで言うとは思っていなかったので。)

実質「強制」の朝課外には、生徒と保護者から異論の声が噴出しているのは事実です。
私はきっといつかこういった「必修」の朝課外はなくなると思っています。
そして、いつかなくなるのなら、生徒のため、ご家族のために、一刻も早くなくすべきと思っています。

記事の趣旨にそった形で、朝課外はあってもいい、でも「必修」である必要はありません。そう言いたいところですが、本音を言ってしまえば、学校の先生の勤務時間のことも考えると、私は朝課外自体なくしてしまってよいと思っています。朝課外は非効率です。時間が早すぎますから。もし課外が必要ならば、取材のときにAさんが言っていたように、部活動の時間を短縮してでも放課後に持っていくべきだと私も思います。







by terakoyanet | 2017-12-30 09:00 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)
2017年 11月 17日

大人の悪口を言う子どもたち

昨日も子どもたちが自分の親の悪口を言い立てていました。
「うちの親、まじで性格悪い。」
「うちの親、まじひげ親父。」
「うちの親は横でテレビ見すぎ。」
「うちの親は、要求が細かい。」
「うちの親は、うるさい。無理な要求するし、話が長い。」
「ていうか、親っていうか、俺も性格悪い。」
ある子が言うと、それに刺激されるように他の子が言い出すので、私は面白いなあと思って聞き流しています。

子どもたちは学校の先生の悪口も毎日のようにしゃべっているのですが、度が過ぎているなと思う場合、注意することもあります。それひどすぎるよね、と。

でも、子どもが親の悪口を言うときというのは、むしろそうやって親への愛着を示している子が多くて、なんだか安心します。

子どもが大人の悪口を言うというのは健全なこと。そう思います。
悪口を言われるのは私だってイヤですが、でも、子どもが大人の悪口を言うというのは、子どもが大人という壁にぶち当たっているということであり、それは必要だと思うのです。

だから、親は子どもに悪口を言われるくらいでいいんじゃないかと思います。
まだ小学生の子どもから悪口を言われる親というのは心配になります(この場合、親子関係に問題があることがあります)が、中高生の子どもが親の悪口を言うとき、その子は親からちゃんと自立しようとしているということの証左であることが多いものです。

逆に、聞き分けのよい子というのは案外心配なものです。
子どもは思春期において、大人への共感、そして疑問や反発を通して、人格と言われるものをつくっていきます。そうやって、自分の思考と大人の思考との(いまはやりの言葉で言えば)アウフヘーベンによって、社会性や善悪の正体、自らの倫理観を深いところまで掘り下げ、親とは別の場所で思考できる人間が育っていくのです。

だから、周りの親や大人に対する悪口を言わない子は心配なところがあります。
悪口を言わないというのが、単純にその子の倫理観に根差すものと感じることがあります。
そうであれば、あまり心配がないのですが、中には、その子の思考が親のコントロール下にあるから、この子は親の悪口を言わないんだなと感じることがあります。

これはお母さんが魅力的なエネルギーを発散しているタイプの子に多いのですが、その子はいつもどこかで母親という太陽のような存在に対して、全面的な承認と称賛を求められているのでしょう。
そういう関係というは母親も子どももほとんど無意識なのですが、そういう親子のコミュニケーションの円環の中にいる子というのは、まず親の悪口を言うことはありません。その子は、親というのは決して傷つけてはならないものであることを身をもって知っていますから。このような子は、コントロール下に置かれたまま中高時代をそのままやり過ごすことが多いのですが、いよいよ自立すべき成人前後になったときに、いろいろと親との関係に悩まされることがあるようで、私もそういった卒業生たちから話を聞くことがあります。

このことについて話し始めると長くなりますのでここまでにしますが、とにかく、子どもが親の悪口を言っているときというのは、案外ほほえましいことが多いです。(それに比べ、学校の先生の悪口は全然ほほえましくないです。子どもたちも大変ですが、学校の先生もほんとうに大変だと思います。)たまに親のことで本当に困っている子が相談をしてきますが、そういう子というのは、悪口を言う余裕もない、悩み抜いている子です。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。

唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2017-11-17 15:47 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 18日

成功の裏返し

夏に教室に遊びに来た健二くん(仮名)と話しました。
健二くんは大学3年生。いまは京都の大学に通っています。


健二くんは小学校に上がる少し前からお母さんとそして3つ上の兄と3人暮らしでした。
大学に入り、家族と離れて一人暮らしになって気づいたことがいろいろとあるそうです。

最近の若い子たちの中には、大学時代に急激な成熟を遂げる子たちがいます。その数(割合)は以前より多い気がします。
現代の情報が氾濫する状況は負の面として語られがちですが、情報を読み取る力、取捨できる力がある子は、数ある情報から自分が拠り所とすることができるような思考を的確に捉えます。そのときの道具として、インターネットなどの即席の情報が明らかに寄与していると感じることが多々あるのです。

「僕の母って、いつも自分が正しい存在であることで輝いている人で、僕はずっとこの人の機嫌取りをしてきたんだなって離れてみて初めて気づいたんです。」

私の目には、健二くんのお母さんは「あなたの人生なんだから、あなたの好きなようにしなさいっ」と子どもを手放すことに自覚的な方と映っていました。

「いつも、ふとしたときに、これは母が怒るだろうな、とか、これは母が喜んでくれる、とか、全く母の目に届かないところで動いているのに、そうやって自分の行動を母の目でチェックしてしまうんです。これはもう癖みたいなもので、無意識にやっちゃうんです。これは、母と離れて初めて気づいたことです。僕の母は基本的に、自分の人生に対してあなた自身が責任を持ちなさい、というスタンスで、僕自身、母といい距離感だと自分で思っていたところがあったんですけど、でも、母が長いこと僕に伝えてきたことには、かなりのバイアスがかかっていたことに気づいたんです。この前、インタビューかなんかで養老孟司さんが、成功体験は危ない、という話をしているのをたまたま読んで。」

私は、彼のお母さんがかつて「私は健二がどこの学校に行ってもいいと思っているけど、でも成功体験がないからそれを経験させたい」と話していたのを思い出しました。それは高校入試の直前の面談の際でした。私の方も、彼を2年以上指導してきて、彼が根っこの部分で学習に対する自信を持っていないこと、頑張る姿勢を見せているときでさえどこか受け身の姿勢から抜け出すことができないことに対して、どうにか変化が生まれれば、と思っていました。だから、お母さんがおっしゃっていること、彼に根っこの部分で自信を持ってほしいという気持ちが理解できました。しかし一方で、このタイミングで彼の目の前でそれを言うのは彼にとってプレッシャーになるのではないかな、そうやって心配したあのときのこと ーすでに6年も前のことになるのですがー をはっきりと思い出していました。

「成功の裏返しは失敗じゃないですか。僕はずっと失敗に囚われてきたんです。僕はいつの間にか母親が用意していた成功と失敗の二元論の中で生きていて、単に目の前にあるものを自然に受け取るという単純なことができていなかったと、養老さんの話を読んで気づきました。成功体験というのは結果じゃないですか。結果的に成功したことが自信に繋がるということであって、成功体験を求めることから始めると、初めからその成功は損なわれていて、その先には喪失しかないんです。僕は単に事実を事実のままに受け取ればよかったのに、それを成功や失敗として受け取り、それで勝手に傷ついてきたことに気づかされました。これが僕が母から知らず知らずのうちに受け取っていたバイアスのひとつです。」

そう話す彼の頬は紅潮していました。成功体験というのは、高度経済成長やバブルの記憶が残る人たちによる特殊な思考にすぎない、彼はそう断じました。この点についてはもっと根が深いものかもしれない、私はそんな気がしますが、確かに、成功体験を求めることは、どうしても「成功しなければ」というミッションを自身に科すことになり、それはその人の人生をがんじがらめにしてしまうことがある、彼が中学時代に、自信がなくて、いつも受け身に見えていたのも、成功体験にとらわれていたからもしれない、彼の話を聞きながら、そんなことを考えました。

こうやって、生徒たち、卒業生たちから学ぶことは、たくさんあります。


*プライバシーを配慮しています。そのため、以上の話はそのまま事実ではなく、創作を含んでいます。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。

唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2017-10-18 11:28 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 29日

苦手意識を全体化しないこと。

「私は数学が苦手」と言う子がいます。

しかしその子を教えてみると、その子は計算は抜群にできる。できないのは主に図形とグラフの問題だったりすることがあります。
この子の場合、苦手なのは図形の問題とグラフの問題であり、数学全般ではありません。
ですから、このような子に周りが「数学が苦手だね」と言うべきではありません。
「あなたは計算ができるんだから数学が苦手なわけではないけれど、図形とグラフの問題で躓くことがあるね。」と丁寧に話してあげる必要があります。


苦手な単元や内容を分析しないまま、「数学が苦手」と苦手意識を全体化することは大変危険です。こんなことをしていると、名実ともに「数学が苦手」な子ができあがってしまうのがオチです。「数学」と聞いただけでその子は怯んでしまうようになるのです。でも、「数学が苦手」と思っている子にも、得意な分野、苦手な分野があるはずです。どんなに「英語が苦手」と思っている子だって、その子独自の得意なところを見つけてあげることは、それほど難しいことではありません。子どもが自分で得意なところを見つけられないときは、指導する人がそこを発見してあげることで苦手意識の全体化を防いであげることが、学力向上のためには必要です。


苦手意識を全体化せず、苦手な内容を吟味すること、これが本人にとっても周囲の指導者や保護者にとっても、とても大切です。



しかし、このような全体化は、時にはいい作用をもたらすことがあります。

歴史が大好きな子がいます。その子が興味があるのは「歴史」、しかも「日本史」の「戦国時代」であったりします。しかし、その子は戦国時代が好きだからいい点が取れる、そうすると、歴史全体も好きな気がして歴史ならいつでも点数が取れるようになる、さらに歴史は社会科の一部だから、地理でも公民でも社会なら点数が取れるようになる、そういうことはよくあります。

これは良い全体化の例です。


以上のように、全体化自体は必ずしも悪いことではありませんが、それが負の面に働きそうなときは、そこを制御することが大切だと思います。


(*先日、中2のある子と話しているときに、以上のことを痛感することがあったので、2008年の同名タイトルの記事をリニューアルしました。)


とらきつね on Facebook 随時更新中です。

唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2017-04-29 08:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 16日

「朝課外」という名の強制授業は選択制にすべき。

高校の朝課外の〇〇先生はよかった、先生のおかげで大学合格できました。
そう話す子がいることを私は知っているから、朝課外そのものを全面的に否定する論調は避けたいのですが、しかし、公立高校(及び一部の私立高校)の朝課外には大きな問題があると感じています。

福岡県の公立高校では、1限目の授業の前に(例えば7:30~8:20の間の50分間)行われる朝課外が「制度化」されています。朝課外を受けるかどうかに選択の余地がない学校が圧倒的に多く、多数の生徒はつらいなーと目をこすりながら朝6時台には家を出るわけですが、どうしても「つらいなー」では済まされない生徒もいるわけです。

私はこれまで、朝課外に出るのがつらすぎて、しかも出なかったら徹底的に先生たちに言われる(イジメられる、と形容した子もいました)から、朝課外に行かなかっただけで気が重くなりすぎて、学校自体を休んでしまう、そういった子たちから、何人も話を聞いてきました。実際にそのせいで不登校になった子とも話してきました。「その子の気持ちが弱いから」そう突き放すことも可能ですが、しかし、もともと1~7限の授業に頑張って参加している(しかもその多くは部活動までしている)高校生たちの一部が、朝課外を休んだからといってそれを責めるのは、酷な場合があるのではないでしょうか。「朝課外に行けない」と相談してきたある女の子は低血圧がひどく、朝に無理に動くと眩暈がするし、勉強に集中できない、と切に訴えてきました。でも勉強に集中できないことはもうわかりきっているけど、朝課外を休んだら、なんとなくクラスにいられない感じがするから、どうにか行っていると話していました。

ある高3生は、学校の先生の強いすすめで高2の終わりに国立文系クラスを選びました。しかし、高3の夏に熟考した結果、私立文系の学校を受験することに決めなおしました。しかし、彼が所属するのは国立文系クラス。受験に必要のなくなった数学や理科の課外が行われています。私立合格に向けて俄然やる気のあった彼ですから、受験に関係のない数学や理科の課外は本当は出たくない、でも到底休むことができるような雰囲気じゃない、先生たちは本当に面倒だし、ということで、休まずに理科の課外の時間にこそっと世界史Bの学習をしていた、しかしそれが見つかって、授業中に激怒され、吊るし上げられる。「お前、何やっとんのか、こら!?」とブチ切れされる。彼としてはただ自分の受験のために必要なことを考えて勉強しているのに、それが認められないどころか、全否定され、クラス全員の前で恥をかかされる。もう、高校、残り少ないのはわかっているけど、本当に学校に行きたくない、やめたい、と切々と訴えてきました。

同じくある高3生は私立文系コースの帰国子女。彼女は英語圏での生活が長かったせいで、英語がすごく得意で模試では偏差値80を取れる。でも国語と地理の成績はまだまだで偏差値50にも満たない。学校の朝課外は週5あって、内訳は英語が3で、国語と地理は1ずつ。彼女は朝課外の英語は参加せずに、その時間は国語と地理の勉強をしたい。そのことを先生に伝えるも、「気持ちはわかるけどそれはわがまま」と言われる。わがままはどっちだ?学校の都合に私を巻き込まないでほしい、と彼女はそこまで言うのに、結局、英語の課外に出て、その間、国語と地理の勉強はできない。


中学や高校では、まるで理不尽さそのものを体にしみこませようとするかのような指導をすることがあると感じるし、「課外」という正規ではない授業と銘打っておいて、実際には朝課外も放課後課外も実質的には強制で受けさせるというそのやり口は、例えが悪いと批判を受けかねないけれども、ブラック企業のやり口とそっくりではないか、そんなことにまで耐性をつけさせようとしているのか?とまで考えてしまうわけです。

学校は組織、だから一人ひとりの思い通りにはならない。
そんな「正論」はわかっているけれども、でも、その正論に居直っては決してならない。
だから、私は、朝課外は選択制にすべき、と強く感じます。選択制ではなく、強制にしないと子どもたちは来ない、そんなに受験は甘くない、という反論がありそうです。しかし、いつも授業をやっている人間として思うことは、本当に必要な授業をやっていれば子どもたちは来るはずだということ、だから子どもたちがそれでも来るような授業をつくることのほうが大切だし、その努力を棚上げにして子どもたちに授業を強制するというのは、理想的な指導からは程遠いということを、もっと大人たちが共有すべきではないかと感じています。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2016-11-16 11:58 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)
2016年 09月 29日

やる気は必要ない

いまFBを見ていたら、脳科学者の茂木健一郎さんの今朝のつぶやきが流れてきて、とても興味深いことをおっしゃっていたので、そのまま引用します。(*もし問題があればご指摘ください。)


時々受けるご質問に、「やる気がでない」「どうしたらやる気がでますか」というものがある。それに対する私の答えは、ちょっと意外なものである。それは、「やる気は必要ありません!」「やる気がでないを、言い訳にしないでください!」というものだ。

もちろん、「夢」はあった方がいい。「目標」もあるにこしたことがない。しかし、日々の仕事、営みにおいては、「やる気」は必要ない。むしろ、淡々と、フラットに、アップもダウンもなく、続けていく方が良い。

例えば、10年かけて実現する「夢」があるとする。夢を抱いたその出発点は、感動があったり、意外な出会いがあったりするのかもしれないけれども、そのあとの10年間は、基本的に日常の連続であるはずである。

毎朝起きて、今日もまた淡々と作業をする。その過程で、「やる気」という、特別なものは必要ない。むしろ、常に、「今、ここ」に没入して目の前のことをこなしていくのであって、それ以上でも、それ以下でもない。

逆に言えば「やる気」がでないという人は、それをやらないことの言い訳にしているにすぎない。「やる気」というのは、それがあるから行動できるのではなくて、行動しないことの言い訳として、「やる気」を持ち出しているだけの話なのである。

何かに取り組んだり、行動したりするのに「やる気」は必要ない。そう気づけば、ずいぶん気が楽になるだろう。また、「やる気」がないことをを言い訳にして何もしないでいる自分にサヨナラできるだろう。「やる気」は必要ない。さあ、今日も、「やる気」など関係なく、目の前のことに取り組みましょう。




「やる気」は必要ない。
この逆説的な言葉は、例えば、いま大切な試験直前で、それに追い詰められて「やる気」になっている人たちに向けられているものではなく、日々の生活の中で「やる気」という切迫感を持てずに、自分の「やる気のなさ」を持て余している人たちに向けられている言葉です。

「今、ここ」に没入して目の前のことをこなしていくのであって、それ以上でも、それ以下でもない。

やる気があるかないかは置いておいて、とりあえず、今、動いてみるんです。
私の「今」の身軽さに気づいたあなたは、小さな驚きとともに、目の前の作業にすっとのめり込むことができるかもしれません。

「やる気」が入りすぎると、弊害もあります。
それはいつか燃え尽きてしまうかもしれないのです。
「やる気」というスイッチが入っていたことを自覚した人ほど、そのスイッチが切れると、とたんに動けなくなるのです。これが「やる気」の逆説です。

日々、淡々と作業をこなしていく。
これにかなうものはきっとないのでしょう。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2016-09-29 07:27 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)