寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2017年 11月 17日

大人の悪口を言う子どもたち

昨日も子どもたちが自分の親の悪口を言い立てていました。
「うちの親、まじで性格悪い。」
「うちの親、まじひげ親父。」
「うちの親は横でテレビ見すぎ。」
「うちの親は、要求が細かい。」
「うちの親は、うるさい。無理な要求するし、話が長い。」
「ていうか、親っていうか、俺も性格悪い。」
ある子が言うと、それに刺激されるように他の子が言い出すので、私は面白いなあと思って聞き流しています。

子どもたちは学校の先生の悪口も毎日のようにしゃべっているのですが、度が過ぎているなと思う場合、注意することもあります。それひどすぎるよね、と。

でも、子どもが親の悪口を言うときというのは、むしろそうやって親への愛着を示している子が多くて、なんだか安心します。

子どもが大人の悪口を言うというのは健全なこと。そう思います。
悪口を言われるのは私だってイヤですが、でも、子どもが大人の悪口を言うというのは、子どもが大人という壁にぶち当たっているということであり、それは必要だと思うのです。

だから、親は子どもに悪口を言われるくらいでいいんじゃないかと思います。
まだ小学生の子どもから悪口を言われる親というのは心配になります(この場合、親子関係に問題があることがあります)が、中高生の子どもが親の悪口を言うとき、その子は親からちゃんと自立しようとしているということの証左であることが多いものです。

逆に、聞き分けのよい子というのは案外心配なものです。
子どもは思春期において、大人への共感、そして疑問や反発を通して、人格と言われるものをつくっていきます。そうやって、自分の思考と大人の思考との(いまはやりの言葉で言えば)アウフヘーベンによって、社会性や善悪の正体、自らの倫理観を深いところまで掘り下げ、親とは別の場所で思考できる人間が育っていくのです。

だから、周りの親や大人に対する悪口を言わない子は心配なところがあります。
悪口を言わないというのが、単純にその子の倫理観に根差すものと感じることがあります。
そうであれば、あまり心配がないのですが、中には、その子の思考が親のコントロール下にあるから、この子は親の悪口を言わないんだなと感じることがあります。

これはお母さんが魅力的なエネルギーを発散しているタイプの子に多いのですが、その子はいつもどこかで母親という太陽のような存在に対して、全面的な承認と称賛を求められているのでしょう。
そういう関係というは母親も子どももほとんど無意識なのですが、そういう親子のコミュニケーションの円環の中にいる子というのは、まず親の悪口を言うことはありません。その子は、親というのは決して傷つけてはならないものであることを身をもって知っていますから。このような子は、コントロール下に置かれたまま中高時代をそのままやり過ごすことが多いのですが、いよいよ自立すべき成人前後になったときに、いろいろと親との関係に悩まされることがあるようで、私もそういった卒業生たちから話を聞くことがあります。

このことについて話し始めると長くなりますのでここまでにしますが、とにかく、子どもが親の悪口を言っているときというのは、案外ほほえましいことが多いです。(それに比べ、学校の先生の悪口は全然ほほえましくないです。子どもたちも大変ですが、学校の先生もほんとうに大変だと思います。)たまに親のことで本当に困っている子が相談をしてきますが、そういう子というのは、悪口を言う余裕もない、悩み抜いている子です。


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by terakoyanet | 2017-11-17 15:47 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 18日

成功の裏返し

夏に教室に遊びに来た健二くん(仮名)と話しました。
健二くんは大学3年生。いまは京都の大学に通っています。


健二くんは小学校に上がる少し前からお母さんとそして3つ上の兄と3人暮らしでした。
大学に入り、家族と離れて一人暮らしになって気づいたことがいろいろとあるそうです。

最近の若い子たちの中には、大学時代に急激な成熟を遂げる子たちがいます。その数(割合)は以前より多い気がします。
現代の情報が氾濫する状況は負の面として語られがちですが、情報を読み取る力、取捨できる力がある子は、数ある情報から自分が拠り所とすることができるような思考を的確に捉えます。そのときの道具として、インターネットなどの即席の情報が明らかに寄与していると感じることが多々あるのです。

「僕の母って、いつも自分が正しい存在であることで輝いている人で、僕はずっとこの人の機嫌取りをしてきたんだなって離れてみて初めて気づいたんです。」

私の目には、健二くんのお母さんは「あなたの人生なんだから、あなたの好きなようにしなさいっ」と子どもを手放すことに自覚的な方と映っていました。

「いつも、ふとしたときに、これは母が怒るだろうな、とか、これは母が喜んでくれる、とか、全く母の目に届かないところで動いているのに、そうやって自分の行動を母の目でチェックしてしまうんです。これはもう癖みたいなもので、無意識にやっちゃうんです。これは、母と離れて初めて気づいたことです。僕の母は基本的に、自分の人生に対してあなた自身が責任を持ちなさい、というスタンスで、僕自身、母といい距離感だと自分で思っていたところがあったんですけど、でも、母が長いこと僕に伝えてきたことには、かなりのバイアスがかかっていたことに気づいたんです。この前、インタビューかなんかで養老孟司さんが、成功体験は危ない、という話をしているのをたまたま読んで。」

私は、彼のお母さんがかつて「私は健二がどこの学校に行ってもいいと思っているけど、でも成功体験がないからそれを経験させたい」と話していたのを思い出しました。それは高校入試の直前の面談の際でした。私の方も、彼を2年以上指導してきて、彼が根っこの部分で学習に対する自信を持っていないこと、頑張る姿勢を見せているときでさえどこか受け身の姿勢から抜け出すことができないことに対して、どうにか変化が生まれれば、と思っていました。だから、お母さんがおっしゃっていること、彼に根っこの部分で自信を持ってほしいという気持ちが理解できました。しかし一方で、このタイミングで彼の目の前でそれを言うのは彼にとってプレッシャーになるのではないかな、そうやって心配したあのときのこと ーすでに6年も前のことになるのですがー をはっきりと思い出していました。

「成功の裏返しは失敗じゃないですか。僕はずっと失敗に囚われてきたんです。僕はいつの間にか母親が用意していた成功と失敗の二元論の中で生きていて、単に目の前にあるものを自然に受け取るという単純なことができていなかったと、養老さんの話を読んで気づきました。成功体験というのは結果じゃないですか。結果的に成功したことが自信に繋がるということであって、成功体験を求めることから始めると、初めからその成功は損なわれていて、その先には喪失しかないんです。僕は単に事実を事実のままに受け取ればよかったのに、それを成功や失敗として受け取り、それで勝手に傷ついてきたことに気づかされました。これが僕が母から知らず知らずのうちに受け取っていたバイアスのひとつです。」

そう話す彼の頬は紅潮していました。成功体験というのは、高度経済成長やバブルの記憶が残る人たちによる特殊な思考にすぎない、彼はそう断じました。この点についてはもっと根が深いものかもしれない、私はそんな気がしますが、確かに、成功体験を求めることは、どうしても「成功しなければ」というミッションを自身に科すことになり、それはその人の人生をがんじがらめにしてしまうことがある、彼が中学時代に、自信がなくて、いつも受け身に見えていたのも、成功体験にとらわれていたからもしれない、彼の話を聞きながら、そんなことを考えました。

こうやって、生徒たち、卒業生たちから学ぶことは、たくさんあります。


*プライバシーを配慮しています。そのため、以上の話はそのまま事実ではなく、創作を含んでいます。


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by terakoyanet | 2017-10-18 11:28 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 29日

苦手意識を全体化しないこと。

「私は数学が苦手」と言う子がいます。

しかしその子を教えてみると、その子は計算は抜群にできる。できないのは主に図形とグラフの問題だったりすることがあります。
この子の場合、苦手なのは図形の問題とグラフの問題であり、数学全般ではありません。
ですから、このような子に周りが「数学が苦手だね」と言うべきではありません。
「あなたは計算ができるんだから数学が苦手なわけではないけれど、図形とグラフの問題で躓くことがあるね。」と丁寧に話してあげる必要があります。


苦手な単元や内容を分析しないまま、「数学が苦手」と苦手意識を全体化することは大変危険です。こんなことをしていると、名実ともに「数学が苦手」な子ができあがってしまうのがオチです。「数学」と聞いただけでその子は怯んでしまうようになるのです。でも、「数学が苦手」と思っている子にも、得意な分野、苦手な分野があるはずです。どんなに「英語が苦手」と思っている子だって、その子独自の得意なところを見つけてあげることは、それほど難しいことではありません。子どもが自分で得意なところを見つけられないときは、指導する人がそこを発見してあげることで苦手意識の全体化を防いであげることが、学力向上のためには必要です。


苦手意識を全体化せず、苦手な内容を吟味すること、これが本人にとっても周囲の指導者や保護者にとっても、とても大切です。



しかし、このような全体化は、時にはいい作用をもたらすことがあります。

歴史が大好きな子がいます。その子が興味があるのは「歴史」、しかも「日本史」の「戦国時代」であったりします。しかし、その子は戦国時代が好きだからいい点が取れる、そうすると、歴史全体も好きな気がして歴史ならいつでも点数が取れるようになる、さらに歴史は社会科の一部だから、地理でも公民でも社会なら点数が取れるようになる、そういうことはよくあります。

これは良い全体化の例です。


以上のように、全体化自体は必ずしも悪いことではありませんが、それが負の面に働きそうなときは、そこを制御することが大切だと思います。


(*先日、中2のある子と話しているときに、以上のことを痛感することがあったので、2008年の同名タイトルの記事をリニューアルしました。)


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by terakoyanet | 2017-04-29 08:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 16日

「朝課外」という名の強制授業は選択制にすべき。

高校の朝課外の〇〇先生はよかった、先生のおかげで大学合格できました。
そう話す子がいることを私は知っているから、朝課外そのものを全面的に否定する論調は避けたいのですが、しかし、公立高校(及び一部の私立高校)の朝課外には大きな問題があると感じています。

福岡県の公立高校では、1限目の授業の前に(例えば7:30~8:20の間の50分間)行われる朝課外が「制度化」されています。朝課外を受けるかどうかに選択の余地がない学校が圧倒的に多く、多数の生徒はつらいなーと目をこすりながら朝6時台には家を出るわけですが、どうしても「つらいなー」では済まされない生徒もいるわけです。

私はこれまで、朝課外に出るのがつらすぎて、しかも出なかったら徹底的に先生たちに言われる(イジメられる、と形容した子もいました)から、朝課外に行かなかっただけで気が重くなりすぎて、学校自体を休んでしまう、そういった子たちから、何人も話を聞いてきました。実際にそのせいで不登校になった子とも話してきました。「その子の気持ちが弱いから」そう突き放すことも可能ですが、しかし、もともと1~7限の授業に頑張って参加している(しかもその多くは部活動までしている)高校生たちの一部が、朝課外を休んだからといってそれを責めるのは、酷な場合があるのではないでしょうか。「朝課外に行けない」と相談してきたある女の子は低血圧がひどく、朝に無理に動くと眩暈がするし、勉強に集中できない、と切に訴えてきました。でも勉強に集中できないことはもうわかりきっているけど、朝課外を休んだら、なんとなくクラスにいられない感じがするから、どうにか行っていると話していました。

ある高3生は、学校の先生の強いすすめで高2の終わりに国立文系クラスを選びました。しかし、高3の夏に熟考した結果、私立文系の学校を受験することに決めなおしました。しかし、彼が所属するのは国立文系クラス。受験に必要のなくなった数学や理科の課外が行われています。私立合格に向けて俄然やる気のあった彼ですから、受験に関係のない数学や理科の課外は本当は出たくない、でも到底休むことができるような雰囲気じゃない、先生たちは本当に面倒だし、ということで、休まずに理科の課外の時間にこそっと世界史Bの学習をしていた、しかしそれが見つかって、授業中に激怒され、吊るし上げられる。「お前、何やっとんのか、こら!?」とブチ切れされる。彼としてはただ自分の受験のために必要なことを考えて勉強しているのに、それが認められないどころか、全否定され、クラス全員の前で恥をかかされる。もう、高校、残り少ないのはわかっているけど、本当に学校に行きたくない、やめたい、と切々と訴えてきました。

同じくある高3生は私立文系コースの帰国子女。彼女は英語圏での生活が長かったせいで、英語がすごく得意で模試では偏差値80を取れる。でも国語と地理の成績はまだまだで偏差値50にも満たない。学校の朝課外は週5あって、内訳は英語が3で、国語と地理は1ずつ。彼女は朝課外の英語は参加せずに、その時間は国語と地理の勉強をしたい。そのことを先生に伝えるも、「気持ちはわかるけどそれはわがまま」と言われる。わがままはどっちだ?学校の都合に私を巻き込まないでほしい、と彼女はそこまで言うのに、結局、英語の課外に出て、その間、国語と地理の勉強はできない。


中学や高校では、まるで理不尽さそのものを体にしみこませようとするかのような指導をすることがあると感じるし、「課外」という正規ではない授業と銘打っておいて、実際には朝課外も放課後課外も実質的には強制で受けさせるというそのやり口は、例えが悪いと批判を受けかねないけれども、ブラック企業のやり口とそっくりではないか、そんなことにまで耐性をつけさせようとしているのか?とまで考えてしまうわけです。

学校は組織、だから一人ひとりの思い通りにはならない。
そんな「正論」はわかっているけれども、でも、その正論に居直っては決してならない。
だから、私は、朝課外は選択制にすべき、と強く感じます。選択制ではなく、強制にしないと子どもたちは来ない、そんなに受験は甘くない、という反論がありそうです。しかし、いつも授業をやっている人間として思うことは、本当に必要な授業をやっていれば子どもたちは来るはずだということ、だから子どもたちがそれでも来るような授業をつくることのほうが大切だし、その努力を棚上げにして子どもたちに授業を強制するというのは、理想的な指導からは程遠いということを、もっと大人たちが共有すべきではないかと感じています。



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by terakoyanet | 2016-11-16 11:58 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)
2016年 09月 29日

やる気は必要ない

いまFBを見ていたら、脳科学者の茂木健一郎さんの今朝のつぶやきが流れてきて、とても興味深いことをおっしゃっていたので、そのまま引用します。(*もし問題があればご指摘ください。)


時々受けるご質問に、「やる気がでない」「どうしたらやる気がでますか」というものがある。それに対する私の答えは、ちょっと意外なものである。それは、「やる気は必要ありません!」「やる気がでないを、言い訳にしないでください!」というものだ。

もちろん、「夢」はあった方がいい。「目標」もあるにこしたことがない。しかし、日々の仕事、営みにおいては、「やる気」は必要ない。むしろ、淡々と、フラットに、アップもダウンもなく、続けていく方が良い。

例えば、10年かけて実現する「夢」があるとする。夢を抱いたその出発点は、感動があったり、意外な出会いがあったりするのかもしれないけれども、そのあとの10年間は、基本的に日常の連続であるはずである。

毎朝起きて、今日もまた淡々と作業をする。その過程で、「やる気」という、特別なものは必要ない。むしろ、常に、「今、ここ」に没入して目の前のことをこなしていくのであって、それ以上でも、それ以下でもない。

逆に言えば「やる気」がでないという人は、それをやらないことの言い訳にしているにすぎない。「やる気」というのは、それがあるから行動できるのではなくて、行動しないことの言い訳として、「やる気」を持ち出しているだけの話なのである。

何かに取り組んだり、行動したりするのに「やる気」は必要ない。そう気づけば、ずいぶん気が楽になるだろう。また、「やる気」がないことをを言い訳にして何もしないでいる自分にサヨナラできるだろう。「やる気」は必要ない。さあ、今日も、「やる気」など関係なく、目の前のことに取り組みましょう。




「やる気」は必要ない。
この逆説的な言葉は、例えば、いま大切な試験直前で、それに追い詰められて「やる気」になっている人たちに向けられているものではなく、日々の生活の中で「やる気」という切迫感を持てずに、自分の「やる気のなさ」を持て余している人たちに向けられている言葉です。

「今、ここ」に没入して目の前のことをこなしていくのであって、それ以上でも、それ以下でもない。

やる気があるかないかは置いておいて、とりあえず、今、動いてみるんです。
私の「今」の身軽さに気づいたあなたは、小さな驚きとともに、目の前の作業にすっとのめり込むことができるかもしれません。

「やる気」が入りすぎると、弊害もあります。
それはいつか燃え尽きてしまうかもしれないのです。
「やる気」というスイッチが入っていたことを自覚した人ほど、そのスイッチが切れると、とたんに動けなくなるのです。これが「やる気」の逆説です。

日々、淡々と作業をこなしていく。
これにかなうものはきっとないのでしょう。



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by terakoyanet | 2016-09-29 07:27 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 04日

親の感情と子育て

2カ月以上続いた三者面談がようやくほぼ終わりました。
ご参加いただいたご家庭の皆さま、ありがとうございました!

面談のときにした約束は、その後果たせていますでしょうか。
(めちゃめちゃ張り切っていたのに少し緩んできた子もいます。)

面談のときに、子どもの成績を伸ばすために、親はどこまで干渉していいのか、というご質問をいろいろなご家庭からいただきました。

その回答はご家庭によって異なる、という前提がありますので、とても難しい質問だと思いつつ、これは共通して言えるのではないかと思うことについて少しお話しします。



私は大学時代、妹の家庭教師をしていました。
兄弟だったらけんかになりそうなところなのですが、私自身、家族というフィルターで妹を見ることなく、他の家庭教師の子(当時7~8名の家庭教師をしていたのです)を教えるときと同じように指導することができました。
その結果、妹の成績は伸び、希望の高校に合格しました。

私はここで何が言いたいのかというと、親子間、家族間で教えるときの最大の障害はその関係性だということです。
親は子供に感情的になりすぎる。子どもは親に甘えすぎる。これで 教える-教えられる の関係が成立するわけがないのです。

以前、親が子供を叱るときのポイントについてまとめた記事がありますので、よければご参照ください。

親が子どもにきちんと何かを伝えたいのであれば、その感情的な関係をコントロールすべきです。
ときに感情的に「怒る」ことで、子どもに切実に伝わることもあるでしょう。
しかし、感情的に「叱る」ことは避けられなければなりません。

子どもに指導する際も、いかに子どもを、自分のさまざまな感情と切り離されて独立した人格として認めたうえで対話ができるか、そしてそれを一貫性を保ちながら継続できるか。子どもに伝わるかどうかはそこにかかっていると思います。このことは私自身、日々子どもたちと接しながらいつも心に留めていることです。

そんなことは親子では難しい。確かに難しいのですが、自らの心を振り返り、その感情をコントロールできるようになることは、きっと子どもへの大きなギフトになります。


―――――


いまある学年の子どもたちの間で、寺子屋をやめた生徒たちが成績を急激に下げていることが話題に上っています。

うちの塾においても、どうしても年間に数人だけ途中退塾する生徒が出ます。
そのような子が、そのあと成績を急落させるという話は、毎年耳にすることです。

でもこれは別にうちの塾だけのことではなく、成績を伸ばすスキルがある塾ならば当然のことで、やめたら落ちるに決まっています。
塾をやめる子というのは、「成績が上がらないから」という理由でやめることが多いのですが、でも「成績が上がらない子」というのは、いま塾に来ている環境で、彼らが自分のペースで努力できる範囲で勉強して、いまの成績なのですから、塾という武器がなくなると、よほど、それこそ2倍も3倍も自分自身で真剣に取り組まない限り、成績が下がるのは当たり前のことです。それが難しいからみんな塾に通って、できるだけ効率的に学習を進めているのです。

そもそも「成績が上がらない」という判断を親がすること自体危険をはらんでいます。(よほど毎日つきっきりで子どもの指導をしていたら別ですが。) なぜかと言えば、成績というのは相対的なものであって、成績が上がっていないから、その子がいま悪い状況とは全く限らないからです。

塾をやめるとき、それが本人の判断であれば、そのあとうまくいくことも少しはあるのですが、それが親の判断の場合、勝算は低いです。その判断は感情的になされており、本当にその子に寄り添ったものであることが少ないからです。


―――――

子育てというのは親の感情が絡むから難しい。
でもどうか、そういう感情を持つ自己を責めることがありませんように。
その感情自体は自然なもので、それは他のさまざまな感情と結びついている大切なもの。
自分についても、子どもについても、できるだけフラットに穏やかな判断ができるよう、考えていきたいですね。

私自身、修行の日々です。



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by terakoyanet | 2016-07-04 16:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 26日

会田家の「檄」

話題の会田家。いつもふざけてて、てきとーで面白い会田さんですが、昨日発表された会田誠さんの文章はちゃんとしてて好きです。


「東京都現代美術館の「子供展」における会田家の作品撤去問題について」 会田誠


こんなことを子どもの中学生に言わせるなんて、という意見がネット上にあるけれども、こんなことこそ中学生に言わせるべきだと思います。
子どもに望むべきは傑出した高成績よりも、突出した批評精神だと私は思っています。




以下、「檄」の文面。

もっと教師を増やせ。40人学級に戻すとかふざけんな。先進国は25人教室がスタンダードだろ。少子化なのに。未来の資源に予算を回せ。教師を働かせすぎ。みんなが死んだ目をしているぞ。教師も生徒も。放課後部活に拘束しすぎ。部活をやってないヤツはダメという風潮。とにかく時間がない。もっとゆっくり弁当食わせろ。十分で食えって軍隊かよ。運動会が変。組体操やめろ。教科書に答が書いていない。回りくどい。読んでわからないものをつくってどーすんじゃい。教科書が独習者の邪魔をしている。教科書検定意味あんのかよ。カラーとかカサ増しいらん。かばんが重い。早くタブレット一つにしろ。特別支援教育がただの隔離政策みたいになっている。あの教室はまるでアルカトラズ。みんな同じように行動させられる。できない人間は目の前から消される。従順人間を作る内申書というクソ制度。いつまで富国強兵殖産興業のノリなんだ。素直な組織人間作って国が勝てる時代はとっくに終わってる。多様性の時代に決まってるだろ。個人の幸福を減らし、全体の国力も減らしてやがる。一致団結とかもう無理だから。オマエらのコントロールは吉とでないで凶と出るんだよ。オマエらの設定している学校なんてどうせ不完全。万人向けと思わずもっと謙虚になれ。道徳の時間まったくいらない。役人風情が無限の可能性を持った人の心に介入すんな。大学から哲学追い出すどころか中学から道徳追い出し哲学教えろ。美術が平均週一以下だと?バカにすんな。テメエら自身がバカになってるだろ。受験テクだけでT大行って、人生安全運転で官僚コースか。そんなやつらに舵取られるから日本は小手先の愚策連発でジリ貧コースなんだ。オマエらこそイケてる外国に行って小学校から勉強し直したらどうだ。
・・・



”受験テクだけでT大行って”以外は私もかなり真剣に同意です。

こんなこと言う人がいると知るだけで楽になる学生もいるでしょう。




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by terakoyanet | 2015-07-26 09:09 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 28日

カンニング問題

カンニングについてずっと前にこちらhttp://terakoyant.exblog.jp/8828942に書いたことがあります。

最近、教室内でカンニングと思われる行為が気になることが多くなっています。

周りの目を、特に前の教師(私たち)の目を気にしながら、横をちらちらと見る男の子。
髪の毛で自身の目の動きを隠しながら、横を見ることを繰り返す女の子。
英単語テストをぐんぐん先に進めたいために、小さいメモ紙を隠し持ち、テストを受けようとする男の子や女の子。

先生たちはカンニングに気づいていないと思われがちですが、(先生にもよるかもしれませんが、)実際には当人たち(生徒たち)が思っているずっと何倍も、気づいていることが多いです。ただ、慎重に指導を行いたいと思っているから、その場では泳がせていることが多いのです。

最近、カンニングの間接的指導を行うことが多くなりました。

私たちはカンニングをする生徒を全否定する気はありません。
しかし、カンニングは自分と他人に対するウソであり、自身の成長を妨げているものであることには、なんとしても自身の力で気づいてもらわなければなりません。ですから、その生徒一人ひとりに合わせたアプローチで、その癖を矯正していく必要があると思い、指導を重ねているところです。




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by terakoyanet | 2015-05-28 10:48 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2014年 09月 18日

子どもの自立 -親の不安を子に伝播させないこと-

少し前、といってももう4・5年前のことになるでしょうか。笑うと赤い頬がかわいらしい男の子だったのですが、その子が、塾に来るときに表情を曇らせている。大丈夫かなと思っていると、それが何週間も続く。1ヶ月経ってもその状況が続く。その間に学校の定期テストがあったのですが、それを境にますます表情が暗くなっているのがわかる。本人にたずねても、全く問題ない、大丈夫と言う。そんなことが続いていました。

そうしているうちに、11月になり、その子の三者面談があり、そこでそうかとわかったことがありました。
お母さまがこのようにお話しなさいました。「私がいくら言ってもこの子が勉強しないから、もう大丈夫かと不安で。」「でもテスト前は彼なりにやってたみたいで、でも結果が悪くて。きっとこの子、やり方が悪いんですよ。勉強のやり方の基本さえもわかっていないなんて、もうこの子この先どうなっていくか心配で。」「わからないなら先生に質問してきなさいって言ったんですよ。でも質問しない。もう、そんなんだったら先生に見放されるわよって、いつも私この子に言ってるんですよ。」「先生、この子が確実に伸びるための確実な方法を教えて下さい。確実な方法がないなら、私が先生にこの子を預けている意味はないと思うんです。このまま先生のところに預けていて、本当に大丈夫かしらと不安で不安で。」「あんたこのまま寺子屋続けて大丈夫なの?って聞くんですよ。そしたらこの子黙ってて、私、ますます心配になって。」

お母様は不安と心配で胸中がいっぱいいっぱいでした。
私は彼が塾で見せる、何とも言えない暗澹たる表情の由来はここにあると思いました。

お母様はとても熱心な方で、子どもさんのことを一生懸命考えていらっしゃいました。
物腰が柔らかく、落ち着いた話し方をする素敵な方でした。

しかし、真面目で子どもの事を何よりも優先に考えるお母様の不安と心配は、傍にたたずむ赤い頬の彼の心にそのまま巣食っていました。彼は何をやっても肯定感のようなものを感じることができず、勉強の話となると、うつむくことしかできませんでした。

子どもに愛情をそそぐ素敵なお母様なので、きっと彼はお母様のことが大好きです。でもだからこそ、彼はお母様に何も言えず、お母様が不安と言うのなら、そうなのかな、僕はこのまま勉強しても、このまま塾に行っていてもだめなのかな。日々そう感じながら、でも他の道がないからうちの教室に来ている。彼のこれまでの表情と、お母様を前にした彼の様子から、私はそう思いました。

親の不安は子に伝播します。私がここで「伝播」という、やや大仰な言葉を使ったのは、親の不安は、子の心の底に一旦沈着してしまうと、それが親が思うよりずっと長い期間、その子の心にネガティブな影響を与え続けるからです。子の心に広がる「不安」は彼の行動を縛ります。彼は自身に対する、勉強に対する、塾に対する、否定的な感情から抜け出すことができません。何も信じることができない彼は、何をやっても中途半端で空回りしてしまうのです。

その後、いつも真剣なお母様のお話しを度々拝聴しながら、私の方からは、その子が存外に頑張っていること、きっとうまくいくということを伝えながら、時が過ぎていきました。
彼は中3になり、あるテストでいきなり高得点をとり、それを境に笑顔も増え、その頃と時を同じくして周りに仲の良い友人も増え、夏以降は高邁な努力を続け、志望校に合格するに至りました。



親御さんはよくおっしゃいます。「私の言うことはきかないから、どうぞ先生、この子にビシっと言ってやってください。」
確かに子どもは親の言うことを聞かない。他人の言うことはよく聞く。これは一つの真実です。

しかし、それを超えた一つの真実は、子は親の言うことは聞かないが、親の言わないこと(=親の心の中の本音)は誰よりも聞いている、ということです。
子は知っているのです。親が言うタテマエよりも、親が言わないホンネに真(まこと)があるということを。

だから、親が本気で心配をしていると、親が誰かに対して不信を示していると、子はその心配に同調するし、その誰かを信じなくなります。

親は子に対し、不安を伝えない努力が必要です。
殊に、子に対する不安が募るときには、子はしょせん私とは別人格であり、私そのものの問題ではない、という諦念のようなものを持つことが必要なのです。そうすることで、子は自分のことは自分で考えなければならないということを学びます。親のためではなく、自分自身のために人生を切り拓く術を身につけていきます。そしてそれによってのみ子は「自立」を果たし、大人となっていくのだと私は考えています。


※上記の内容は、モデルを特定されないように、一部、フィクションを交えてお話しをしています。ご了承ください。


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by terakoyanet | 2014-09-18 23:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2013年 10月 03日

塾は勉強をする場所でありさえすればよい。

眠れない病が発症しているので、もうひとつ投稿。



道徳とか行儀とか、そういう付加価値(にすらならないが)を売りにする塾は詐欺以外の何者でもない。



Twitterでちょっとキツめの言葉を吐いたのは私のある知人。




昨今、「道徳」や「行儀」を教えることを「売り」にする塾が存在する。
中には「行儀のよさ」や「親孝行」をポイント化して、ポイントに応じて商品をあげるという、かなり悪趣味な塾も存在する。

私は「道徳」や「行儀」を塾で教えることも、それを「売り」にすることも嫌だ。
ましてや教室での「行儀」や家庭での「親孝行」に対して塾がポイントを付与するなんて、狂っているとしか思えない。そんなことは許されないとさえ感じる。




私は「道徳」や「行儀」自体を否定するつもりはないが、「道徳」や「行儀」といった社会の「常識」、または「社会」そのものに対して疑問を持った子どもたちに対し、その疑問を頭ごなしに否定するような、知性のかけらもない対応をしたくない。「頭ごなしに常識を押しつける人間も必要」という考えもあるかもしれないが、私は私自身の性質上、その考えに与することはできない。


私はかつて日本の村落に存在した寺子屋的学び舎に「道徳」や「行儀」を学ぶ場としての意義があったことを否定しない。最近読んだ宮本常一の本には、村落にとって寺子屋的学び舎がどれだけ生き生きとした意義をもったものであったかということが活写されていて、非常に興味深い。

しかし現在「道徳」や「行儀」を教えると謳う塾にとって、それらを教えることは、単に教室の「付加価値」を高めるための戦略でしかない。そこで教えられる「道徳」や「行儀」は、教える講師にとっても、教えられる子どもにとっても、決して必然性という纏いを帯びることのない空疎なものである。




このことに関連して、私がずっと心にひっかかっていることがある。
2007年に本校がN新聞に取り上げられた記事の本校の紹介のなかに、次のような一文があった。

「塾を勉強するだけの場所とは考えず、精神面の指導にも力を入れているのが大きな特徴。」

私は、こんなこと言ってないし!!精神面の指導とかしてないし!!と思ったけれど、声を大にして言うまでもないかと考え直し、当時、新聞社に抗議するようなアクションはとらなかった。

しかし、6年以上経った今になってもやはりこの文言は気になる。

私は、塾は勉強をする場所でありさえすればよい、と考える。
しかし、勉強を教えている過程で、不意に生徒と心が行き交う機会が訪れることがあるのだ。
そして、結果的に、生徒に精神的な影響を与えることがある。しかしこれは「結果的に」なのである。
はじめから「精神面の指導をするぜ!」とか絶対に考えていない。

夏合宿などの行事も、生徒たちの精神面の指導をするという大義のもと行っているわけではない。
第一に学習力向上のためであり、第二に教室環境(生徒―生徒間、生徒―講師間)を整えるためであり、そして子どもたちの屈託のないあの笑顔!が最高だから行っている。

本校がずっと生徒を集め続けることができるのは、精神面の指導といった「付加価値」のためではなく、単に「勉強をする場所」として優れた部分があるということを、生徒と保護者が認めてくださった結果だと思っている。
「付加価値」で勝負しようとするなんて、塾の指導力の弱小さを披歴するだけ。あくまで勉強をする場所としての完成度を高めなければ。

塾は勉強する場所でありさえすればよく、心や精神は結果的にあとからついてくる(ことがある)。
私はこのスタンスで塾を続けていくことが肝要だと考えています。



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by terakoyanet | 2013-10-03 03:33 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)