寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

terakoyant.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

タグ:新聞 ( 14 ) タグの人気記事


2015年 06月 11日

とらきつね、各誌に掲載。

とらきつねが最近、地元の各誌に掲載されています。うれしいですね。
皆さんのお越しをお待ちしています。
まもなく父の日。何かないかな?と探しに来てください。


リビング福岡(西日本リビング)
d0116009_1439263.jpg


フクオカ・ビーキ(西日本新聞)
d0116009_14402048.jpg




とらきつね on Facebook 随時更新中です。


唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2015-06-11 14:40 | とらきつね | Trackback | Comments(0)
2015年 05月 09日

リビング福岡にとらきつね掲載、そして明日は母の日

5月下旬発行のリビング福岡に1Fとらきつねの記事が載ります。
とても素敵な記事です。
とても素敵な記事のなかで、唯一素敵ではないのが私(鳥羽)の顔です。
ぜひ楽しみにご覧ください。

さあ、明日はいよいよ母の日です。
お母様とご家族にとってよい1日になりますように。


寺子屋の子どもたちへ
今日、明日、とらきつねで買い物をするときに「10%でお願いします。」
という魔法の言葉を言うと、母の日のプレゼントに限り、10%引きで買い物ができるよ。
ぜひ試してみてね。


その他の皆様へ
魔法の言葉はありませんが、ぜひとらきつねで母の日のプレゼントを探してみてください。


d0116009_1445976.jpg

d0116009_145108.jpg



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。

入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。

by terakoyanet | 2015-05-09 14:03 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2013年 10月 03日

塾は勉強をする場所でありさえすればよい。

眠れない病が発症しているので、もうひとつ投稿。



道徳とか行儀とか、そういう付加価値(にすらならないが)を売りにする塾は詐欺以外の何者でもない。



Twitterでちょっとキツめの言葉を吐いたのは私のある知人。




昨今、「道徳」や「行儀」を教えることを「売り」にする塾が存在する。
中には「行儀のよさ」や「親孝行」をポイント化して、ポイントに応じて商品をあげるという、かなり悪趣味な塾も存在する。

私は「道徳」や「行儀」を塾で教えることも、それを「売り」にすることも嫌だ。
ましてや教室での「行儀」や家庭での「親孝行」に対して塾がポイントを付与するなんて、狂っているとしか思えない。そんなことは許されないとさえ感じる。




私は「道徳」や「行儀」自体を否定するつもりはないが、「道徳」や「行儀」といった社会の「常識」、または「社会」そのものに対して疑問を持った子どもたちに対し、その疑問を頭ごなしに否定するような、知性のかけらもない対応をしたくない。「頭ごなしに常識を押しつける人間も必要」という考えもあるかもしれないが、私は私自身の性質上、その考えに与することはできない。


私はかつて日本の村落に存在した寺子屋的学び舎に「道徳」や「行儀」を学ぶ場としての意義があったことを否定しない。最近読んだ宮本常一の本には、村落にとって寺子屋的学び舎がどれだけ生き生きとした意義をもったものであったかということが活写されていて、非常に興味深い。

しかし現在「道徳」や「行儀」を教えると謳う塾にとって、それらを教えることは、単に教室の「付加価値」を高めるための戦略でしかない。そこで教えられる「道徳」や「行儀」は、教える講師にとっても、教えられる子どもにとっても、決して必然性という纏いを帯びることのない空疎なものである。




このことに関連して、私がずっと心にひっかかっていることがある。
2007年に本校がN新聞に取り上げられた記事の本校の紹介のなかに、次のような一文があった。

「塾を勉強するだけの場所とは考えず、精神面の指導にも力を入れているのが大きな特徴。」

私は、こんなこと言ってないし!!精神面の指導とかしてないし!!と思ったけれど、声を大にして言うまでもないかと考え直し、当時、新聞社に抗議するようなアクションはとらなかった。

しかし、6年以上経った今になってもやはりこの文言は気になる。

私は、塾は勉強をする場所でありさえすればよい、と考える。
しかし、勉強を教えている過程で、不意に生徒と心が行き交う機会が訪れることがあるのだ。
そして、結果的に、生徒に精神的な影響を与えることがある。しかしこれは「結果的に」なのである。
はじめから「精神面の指導をするぜ!」とか絶対に考えていない。

夏合宿などの行事も、生徒たちの精神面の指導をするという大義のもと行っているわけではない。
第一に学習力向上のためであり、第二に教室環境(生徒―生徒間、生徒―講師間)を整えるためであり、そして子どもたちの屈託のないあの笑顔!が最高だから行っている。

本校がずっと生徒を集め続けることができるのは、精神面の指導といった「付加価値」のためではなく、単に「勉強をする場所」として優れた部分があるということを、生徒と保護者が認めてくださった結果だと思っている。
「付加価値」で勝負しようとするなんて、塾の指導力の弱小さを披歴するだけ。あくまで勉強をする場所としての完成度を高めなければ。

塾は勉強する場所でありさえすればよく、心や精神は結果的にあとからついてくる(ことがある)。
私はこのスタンスで塾を続けていくことが肝要だと考えています。



唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。

by terakoyanet | 2013-10-03 03:33 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2012年 10月 02日

CMCさんから感謝状をいただきました。

本校で行われたカンボジア地雷撤去支援活動についてはこれまで何度かご紹介してきました。
8月24日には読売新聞に本校の取り組みが取り上げられました

本校が今回協力したカンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)様から、感謝状をいただきました。
(3年生の夏合宿のころにいただいたのですが。紹介が遅れて申し訳ありません。)

d0116009_12471283.jpg


協力していただいた皆様、本当にありがとうございました。
今後も協力していただける機会があれば、どうぞよろしくお願いいたします。


唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。

by terakoyanet | 2012-10-02 12:49 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2012年 08月 24日

読売新聞に本校記事掲載

本日の読売新聞朝刊に、本校のカンボジア支援の取り組みについての記事が掲載されています。
d0116009_647722.jpg

2年生の有田さん、1年生川村君とお母様も登場しています。
ぜひご覧ください。

カンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)事務局からは感謝状も届いています。
皆さまこれからもご支援への協力よろしくお願いいたします。

唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。

by terakoyanet | 2012-08-24 06:48 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2010年 10月 07日

女子の制服が変わる。

d0116009_3252754.jpg
*西日本新聞朝刊10/6


福岡市内の中学女子の夏服が来年度から変わるそうです。
なんと60年ぶり!



それにしても、いまの子たちも、いま70歳を超える方たちも同じデザインの制服を着ていたなんて驚きです。

唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。

本館7F terakoya shop blog をぜひご覧ください。

by terakoyanet | 2010-10-07 03:24 | お知らせ | Trackback | Comments(2)
2009年 02月 18日

メタファー(隠喩)について -村上春樹 in イスラエル-

村上春樹氏がイスラエルで行ったスピーチと、その記事に対する反応について思ったことを書きます。

2月16日(月)の朝日新聞夕刊1面の見出しにはこうありました。

「村上春樹氏、ガザ攻撃批判」

また記事にはこうありました。

また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と(村上氏は)述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言と見られる。



私は、これらの記事に対して少しだけ別の考えを述べたいと思います。

私がお話しする前に、村上氏のスピーチを引用します。



私は小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。

もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。政治家や外交官もそうです。おっと、これは大統領には失礼でしたね。
しかし、小説家は他の職業と決定的に異なる点があります。小説家は自身の嘘によって訴えられることはありません。むしろ小説家はそのことによって祝福されるのです。より大きな嘘をつけばつくほど、小説家はより大きな賞賛を手に入れることができるのです。

小説家の嘘が一般の嘘と異なるのは、小説家の嘘は“本当のこと”を明らかにすることに寄与するという点です。“本当のこと”を完全に理解することはとても難しいことです。そのために、小説家は“本当のこと”をフィクションの世界へと変換していくのです。変換するには、まずはじめに私たちの中にある“本当のこと”と“嘘”を明らかにしなければなりません。

今日、私は“本当のこと”をお話したい。私が嘘をつかない日は1年のうちほんの数日しかないのですけれども。しかし、今日はそのうちの一日です。

この賞の受賞が決まったとき、私に警告する人がいたことも事実です。なぜならガザ地区での戦闘は続いているからです。私は自らに問いかけました。イスラエルを訪問することが果たして正しいことだろうか。この訪問が政治的なある種の支援と受け取られかねないのではないか、と。

いくつもの思いが私の中をよぎりました。しかし、私はこのイスラエルの地に来ることにしました。ほとんどの小説家と同様、私は言われることと反対のことをするのが好きな人間です。そういった意味では私は天性の小説家といえるかもしれません。小説家というのは、自分の眼で見たり、あるいは手で触れたりした感覚無しには、何も信じることができないのです。そして私はここに来ることを決めたのです。私は沈黙よりも、この場所で話すことにしたのです。

これが、私がここにきた理由です。


堅くて高い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があります。その壁がどんな正義を有していようとも、その卵がどんな過ちを含んでいようとも、いかなる時も私は卵の側に立ちます。

なぜでしょうか。それは私たちが、皆一つの卵に過ぎないからです。その壊れやすい卵には、一つ一つ異なった魂(たましい)が入っているのです。私たちそれぞれが高い壁に立ち向かっています。高い壁とは何か、それはある種の“システム”です。“システム”は私たちが普通に生きていく上では、決してできない、やってはならない類のことを為さしめる存在です。

私が小説を書く目的は、たった一つしかありません。それは個々の内面、精神を描きだすことにあるのです。それが私たちの精神的充足(・喜び・強さ)につながり、“システム”が私たちを絡めとることを防ぐことができればと思っています。だから私は、多くの人が泣いたり笑ったりできる、人生や愛の物語を紡いできたのです。

私たちは皆“人間”であり、“個人”であり、そして“壊れやすい卵”なのです。私たちは壁の前では何の希望も持つことはできません。なぜならその壁は、あまりに高く、暗黒で、そして冷たいからです。この壁と戦うためには、私たちは自らがもつ暖かく力強い精神・魂を一つに紡いでいかなくてはなりません。私たちは決して“システム”にコントロールされるようなことがあってはならない、私たちが何者であるかを“システム”に決定されてはならないのです。なぜなら、“システム”を創り出したのは私たち自身なのです。


日本語訳は青山の昼と千駄木の夜よりお借りしました。とても参考になりました。ありがとうございました。




いまの時点で、村上氏のスピーチ全文はわかりません。
しかし、村上氏は(おそらくですが)ガザ攻撃を直接的な表現で批判してはいないのではないか、と私は思っています。


彼は、小説を書くときと同様に、彼の言うところの"本当のこと"を、"卵"と"壁"というメタファーで説明しています。

ただし彼は同じこのスピーチの中で"卵"のことを"個人"、"壁"のことを"システム"と説明していますので、すでにこのメタファーは半ば解除されていると言っても差し支えはありません。

ただし私がここで強調したいのは、"卵"や"壁"という語が本来持っていたメタファーとしての語の機能、役割についてです。



彼が"卵"や"壁"として表現したものが、マスコミでは、"卵"が「多くのガザの犠牲者」、"壁"が「イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁」として解釈され、報道されます。

これはこれで一つの解釈。間違ってなどいません。

しかし、私たちがこの報道を見て、「そうか、村上春樹は、イスラエルのガザ攻撃を痛烈に批判したのだな」とか「イスラエルが建設している壁のことを言っているのだな」と受け取ったとき、彼が最初に話した"卵"と"壁"という語のメタファーとしての機能はすでに失われています。



文学というものに意味があるとすれば、メタファーがメタファーとして機能している間だけです。

メタファーとしての"卵"や"壁"という言葉は、「ガザの犠牲者」や「イスラエルが建設する壁」といった具体的な事実そのものを指すとは限りません。少なくとも、それだけを指すことはありません。

"卵"という言葉は「ガザの犠牲者」に置き換えられるし、または「私の身近にいる1つの魂を持った人間」にも「私という脆弱な存在」にも置き換え可能です。"壁"という言葉もそれと同様に、いろいろな事象に置き換えることができます。

このような置き換えの可能性があるところにメタファーとしての文学の機能があります。
一人ひとりの"卵"としての私たちの心に隠喩の奥にあるものが残ったとき、その文学は初めて意味のあるものになります。




メタファーとしての文学の機能を知っている村上氏は、1つの事実だけを取り上げてそれについての批判をすることはありません。それは、ニュースの解説者が行えばよい仕事です。

村上氏にとって、メタファーを用いること自体が、政治的な戦略なのです。
村上氏のような小説家にとって、ここが生命線なのです。
メタファーという置き換え可能なものによって、"本当のこと"が"壊れやすい卵"である私たちに伝わることが大切なのです。

ですから、村上氏が「ガザ攻撃を批判した」と報道することは、メタファーのもつ含みを事実問題に一元化してしまうことであり、それは彼の小説家としての機能の要を損なわせることになります。



ですから、村上氏が「ガザ攻撃を批判」したとして、彼の政治的発言を歓迎するムードが一部で広がっていますが、それは誤解と言わざるをえません。

私たちがここで発見すべきことは、むしろ、村上氏がこのスピーチにおいて小説家というメタファー(本人の言うところの"嘘")の有効性を述べている点にあります。

彼にとって、メタファーとしての小説を書くことと、"卵の側に立つ"こととは同義です。
「ガザ攻撃を批判」する人の多くが、既存のシステムを前提とした批判を繰り返しています。
「パレスチナが」「イスラエルが」という主語を用いる人の多くが、すでにシステムのコントロール下にあります。

メタファーの置き換え可能な性質は"卵の側に立つ"ことと密接に関わっています。
文学が、メタファーを通して私たちに教えるのは、"私たちは皆それぞれが“人間”であり、“個人”であり、そして“壊れやすい卵”なのだ"ということです。"壁"は私たちが作りあげてしまったものであり、私たちはそれに怖気づくことなく"卵"としての生命を全うしよう、という勇気です。

これらのことを伝える文学の作用は、メタファーが個々人やその人の刹那の心の状況に応じて置き換え可能だからこそ有効であると言えましょう。


村上氏のエルサレム賞受賞が決まったあと、NGO団体などが村上氏に受賞辞退を求める行動を起こしました。これに関し、村上氏本人は「私は自らに問いかけました。イスラエルを訪問することが果たして正しいことだろうか。この訪問が政治的なある種の支援と受け取られかねないのではないか。」と、彼の中の心の迷いについて語っています。

でも結局彼は「私は言われることと反対のことをするのが好きな人間」だからという理由で、イスラエルにやってきました。これは彼にとって大きな政治的決断だと私は思うのです。

易々とエルサレム賞を受けることはイスラエルに対する政治的支援と取られかねない。
しかし、言われるがまま受賞を辞退した場合、「村上氏はイスラエルのガザ攻撃への抗議から受賞を辞退した」となる、彼はそれは望まなかったはずです。なぜならそれは彼にとって、メタファーの死を意味するからです。

私は村上氏が政治的ではない、と主張したいのではありません。
むしろ、彼は政治的で刺激的な作家だと思います。
しかし、村上氏の政治へのアプローチは、NGO団体のアプローチの方法とは異なっていると思います。



彼は小説家としての武器を手放さない方法を選んだ。
それはメタファーによって政治にアプローチすること。
それが彼にとって"卵の側に立つ"ことを意味した。

そう考えると、彼の今回の行動はすべて筋が通っているように思えます。


村上氏はスピーチの最後に「私たちは決して“システム”にコントロールされるようなことがあってはならない、私たちが何者であるかを“システム”に決定されてはならないのです。なぜなら、“システム”を創り出したのは私たち自身なのです。」と言いました。

"システム"にコントロールされないのは難しいことです。
ただ、村上氏はそれについてのヒントを私たちに与えてくれています。

私は今回の村上氏のスピーチの件について、以上のようなことを考えました。


[本日のブログランキング]
本ブログは、2月18日3時現在
にほんブログ村 受験ブログ 高校受験へ8位
学習塾ブログランキング
9位です。

by terakoyanet | 2009-02-18 03:06 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(8)
2008年 04月 08日

不確かなものと柚餅

昨日の朝日新聞朝刊に、分子生物学者の福岡伸一さんと、評論家(哲学者)の柄谷行人さんの対談が掲載されていました。

読んでいろいろと考えるところはあったのですが、私がこの対談を読んで感じたことは、「わからない」ということをもっと大切に考えろということです。

科学的認識というのは、あらゆる事物の中に、法則性、因果性などの、分かること=真理を見出していくものです。しかし科学認識というのはむしろ常に仮説であるということを、私たちは忘れてはいけません。

同じ遺伝子のセットを使って生命を操作しても同じ結果が現れるとは限らない。こういった因果性という考え方そのものに疑問符がつくような事例は、限りがありません。

カオス理論とよばれるものがあります。それは、不規則で予測がつかない事象を取り扱う学問ですが、それが志向するところは、「一見不確かなものだが、しかしそこに決定論的な真理を見出すこと」にあるように思えます。 「不確かに見えるもののなかにこそ真理がある、それを見出すことこそ私たちの喜び」 そういった人間の倒錯した心象がそこには反映されています。

現在さかんに言われているCO2規制の問題についても、これらが科学的根拠をもとに言われている以上、疑ってかかってみなければなりません。
実際のところ、CO2が増えたせいで地球温暖化が進行した、という考えには、おなじ科学者たちの間でもたくさんの異論が出ています。この対談のなかでも、柄谷氏が「CO2の増大は温暖化の原因ではなくその結果だ」という物理学者の槌田敦氏の見解を紹介しています。

いま、巷はエコブームです。ITのあとはエコだ!と高らかに謳う大企業の宣伝部長もいます。
しかし、環境問題は資本主義経済の根幹にある負の側面と直結していることを少しでも考えるならば、「エコ」という合言葉によってさらに資本主義経済が発達していく現在の状況には、あれれ?と思わざるをえません。CO2規制も、資本主義経済という地球上最強の肉食動物の格好の餌食となっています。

世の中は基本的に快楽至上主義で動いています。そしてこれからもそれは続きます。このことを反省する、というより、このことを一人ひとりがまずは自覚することが大切です。自覚したあとの一人ひとりの倫理問題については、とやかく他人が口出すことではありません。ただ、「不確か(かもしれない)」という場所で人が踏みとどまることで、良い方向に変化することは世にたくさんあるような気がします。

それにしても・・・教える側としてはいろいろと考えてしまいます。いまや地球温暖化=CO2増大のため、という図式は、社会科と理科において受験に出る必須項目です。科学も歴史も100年後には通用しないことが教科書にはたくさん載っています。学問というのは根本的に不確かなもの、そのなかで教える側としてどのように伝えていくか、というのは、教育、というよりそれぞれ生き方の根幹にかかわる大切な問題です。



昨日、京都に行った卒業生(福岡中央3年)から柚餅をもらいました。
d0116009_12584867.jpg

まだもらって十数時間しか経っていませんが、とてもおいしかったので完食してしまいました。けっこうな量あったのですが。

それにしても毎日甘いおいしいものを食べています。10年後(5年後?)が心配です。
久しぶりに会った卒業生I君は、以前よりずっと大人になっていました。
誠実さと聡明さと繊細さを感じるその立ち振る舞いに、本当に立派に成長したなあとしみじみ思わざるを得ませんでした。

by terakoyanet | 2008-04-08 13:05 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2008年 02月 09日

寒いですね・・・いろいろな雑感

2月に入ってとにかく寒いですね。週間予報を見ると、最低気温が氷点下になる日もあるようです。受験生をはじめ、皆さん風邪に充分注意してください。(私も注意します。)

いまの子どもたちは私たちの子ども時代より若干薄着のような気がします。これは温暖化の影響でしょうか?それともみんな都会っ子だから、見かけを気にする子が多いからでしょうか。はたまた衣類が昔より進化したので、見た目薄着でも暖かいのでしょうか。

私は中学のころ学生服の下に8枚くらい着て登校しているときもありました。(いまとなってはちょっと考えれませんが。) 友達はさらに上をいっていて、12枚も着ていたので学校の先生に「お前脱げ!」とか言われて本気で怒られていました。十二単(じゅうにひとえ)を着た男子中学生はある意味天然記念物ものです。



朝日新聞夕刊1面には「素粒子」という天声人語が短くなって川柳的なノリになったような小欄があります。一昨日の「素粒子」にはこんな文章が載っていました。

 ご挨拶。「東京5区のみなさま、佐藤ゆかりです。ご縁があり嫁ぐことになりました。バツイチほやほやです」な~んちゃって。

この文を読んで私はとても不快に思いました。朝日新聞の「素粒子」は気の利いた現代版川柳のようなものを狙っているのかもしれませんが、はっきりいってこの文章を見る限り、そこらへんのワイドショーのつまらない悪口と何も変わらないです。ちょっとひどいです。佐藤ゆかりという一躍時代の寵児に上りつめた女性の凋落をあざ笑うような悪趣味で卑俗なマスコミ全体の流れがあり、「素粒子」はそれに完全にのっかっているといった有り様です。巷では倖田來未さんがひどくバッシングを受けていますが、この「素粒子」だって随分とひどいじゃないかと思います。


3年生へ
・後期試験を受ける3年生のみんながんばれ!!応援してます!!
・月曜に推薦が控えているみんなもいろいろ考え込まずにできるだけリラックスしてこの2日を過ごしてください。
・受験生のみんなはこの3連休しっかり勉強してください。この3連休の時間の使い方でみんなの将来の道が変わるかもしれません。教室開放をフルに活用しよう!!
・授業後ゴミをもっとしっかり片付けること。


今日は結婚式で祝辞を述べるのでいまから(徹夜で?)原稿を考えなければなりません。
でも少し油断すると、数日前の突然の訃報を思い出してしまって、悲しみに舞い戻ってしまいます。とても笑顔がすてきな方だったので、その笑顔が頭でちらちらしてしまってどうしようもありません。

by terakoyanet | 2008-02-09 03:06 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)
2008年 01月 21日

話が聞けない子ども

昨日の朝日新聞の1面は、「国語入試にもリスニング 話聞けぬ子増えた」という内容でした。

d0116009_0541131.jpg


話聞けぬ子「増えた」ということですが、私自身の印象からすれば、以前から聞かない子は聞かなかったし、聞く子は聞いていたという感じがします。

ただ、信じられないくらい話を聞いていない子がいるのは事実で、授業や連絡のときに、いま説明したばかりのことを生徒が聞いてくるということが頻繁にあります。そのたびに、「いま言ったけどどういうことだ??そんな質問するってことは聞いてなかったってこと!?え(怒)!?」と詰問することになります。


よく、「勉強ができる子が、そんなにできるのはなぜか」という話が面談などで持ち上がります。
そのとき、「勉強できる子は実は陰で一生懸命勉強してるんだよ」という話になります。
確かに「勉強できる子」は、「勉強が苦手な子」よりずっと勉強している場合が多い、これは確かです。

ただ、あまり勉強していないのに、やっぱり成績がいい子がいる、というのもまた事実です。
それに対し、子どもたちの間、時には大人の間でさえ、もとが違うから・・・云々といった話になってしまいます。

しかし、私が思うに、勉強できるか、できないかの決定的な差は、授業で先生の話を聞けているかどうか、これです。
「勉強が苦手な子」は、先生の話を吸収するだけの集中力がなかったり、そもそも聞く気が足りなかったりします。
「勉強ができる子」は、授業中に、先生の話を吸収し、その場で内容の最低8割以上は理解してしまいます。授業中の見かけは他の子と変わりません。なのに、実際には単元のキーとなるところをしっかり聞いて理解し、授業中に自分のものにしてしまっています。

「勉強が苦手な子」には、話を聞くことの大切さを、もっともっと考えてほしいと思います。しっかり授業を聞けば、自分の集中力を持続させる努力をすれば、もっと楽に成績は上がるのです。

by terakoyanet | 2008-01-21 01:06 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)