寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2017年 05月 24日

すなわち、旅。

深夜に人気のない大濠公園を歩いて帰宅中。

いま、大学生風の台湾から来たと思われる若い男の子たちが、目の前で暗いお濠にカメラを向けて、カシャッ、カシャッとさかんに写真を撮っている。楽しそうだ。


あっ、彼らはきっと旅なのだ。貴重な旅の楽しい夜をこの公園で過ごしているんだ。


そう気づいたとたん、いつもの帰り道が旅の風景に変わった。旅は楽しいなあ。

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by terakoyanet | 2017-05-24 01:02 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 22日

アッシジ巡礼

暑い日差しの中、アッシジ駅からとぼとぼと15分ほど歩き、丘陵上に広がるアッシジの街並みが見え始めたときには、自分でも思いがけないほど心の奥底が揺さぶられるのを感じました。
もともと私はアッシジに強い思い入れがあったわけではなく、そこに行こうと思ったのは、前月に帰省した際に父が行ったほうがいいよと言ったからというそれだけの理由でした。だから、この町が私を待ってくれていたような、まるでこの町を訪れることが、私の人生の中で必然として以前から決まっていたかのようなそんな感覚が自分に訪れたことはとても不思議でした。
喧騒のローマ市内から移動してきたことも関係しているのでしょう。空と緑がとても美しくて、丘陵の町は太陽を浴びて眩いほど輝いて見えました。
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50分ほど歩いたでしょうか。ようやくアッシジの町に着きました。地図で見ると駅から3~4kmほどの距離だったので楽勝かなと思ったのですが、日差しと坂道のせいで案外疲れました。(駅からは公共バスもあります。)
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とうとう憧れの町に着いた。すっかりそんな気持ちになっていましたので、いま私がこの場所にいるということ自体にいまいち現実感がなく、意識がやや朦朧としていました。

こんなときは食べたり人と話したりすることで現実感を取り戻すことができます。ということで、通りかかったレストランへ。
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観光地のレストランですから存外な出費になりましたが、とにかく凄まじく美味しいパスタ。
イタリアで食べるパスタは太陽の味がします。日本のパスタよりずっとアレンジが少なくて、素材の味だけなのに、なんでこれほどに美味しいんだろうと毎回ふるえるような感動があります。

店の女性スタッフに「地震は大丈夫でしたか」と尋ねると、アッシジは揺れはしたものの被害はほとんどなかったとのこと。(※イタリア中部では2016年8月以降、複数回大きな地震が起きています。) アッシジも1997年の地震では聖フランチェスコ聖堂を始め、町の多くの建物やフレスコ画などの文化財が大きな被害を受けました。(現在では見事に修復されています。)

レストランで現実感を取り戻した私は、聖フランチェスコ聖堂に向かいました。
青空に白壁が映えて美しいです。
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聖フランチェスコ聖堂内部では、その空間に身を浸すことに専念したため写真を撮りませんでした。
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ジョットとその弟子たちが描いた聖フランチェスコの生涯を描いた28枚のフレスコ画は本当に素晴らしかったです。特に有名な「小鳥への説教」には心に染み入るような美しさがありました。(この画像のみWikipediaより) 私が聖フランチェスコという人物に特別な魅力を感じるのは、彼のエピソードのひとつひとつがどうしようもなく人間くさいところです。そうやって人間味があるからこそ、それが反転したときに私たちは彼の行いにはっとさせられ、その存在を特別なものと感じます。

アッシジでは、他にも、丘陵の一番高いところにある城郭(Rocca Maggiore)まで登ったり、小さな聖堂を訪れたりしました。小さな聖堂で一人跪いていると、不思議と小さい頃のいろいろな感情が蘇ってきました。

カトリックには「告白」という制度があって、自分が犯した「罪」を神父の前で詳らかにしなければなりません。(一般には「懺悔」と呼ばれているものです。) 告白という制度によって、人は自らの「罪」を常に問い続けなければならなくなります。四六時中、これは罪だろうか、また罪を犯してしまった、そういうことを考えながら、いつでも頭の隅に罪悪感を抱えたまま生活をすることになります。しかも、どれだけ「告白」をしたところで、自分の罪はなくなることがありません。告白を終えたとたんに罪が蘇生します。罪は行為だけでなく内面にも存在するものなので、心が罪を犯すことは避けがたく、いつでも罪悪感が心を絞めつけます。

質素な聖堂の中でそうやって小さい頃の罪の感情を思い出していたときに、ああ、これは幼い自分にとって、案外苦しいことだったのだな、と不意に気づかされました。そうやって、苦しいことだったと気づかされ、そして、苦しいと思っても良かったのだと気づかされたとき、長い間、心を絞めつけていた軛のようなものが解除されるのを感じました。

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アッシジを訪問する人は、聖フランチェスコ聖堂だけでなく、アップダウンの激しい町をてくてくと歩いてみてください。きっといろいろな発見がある良い時間になります。
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by terakoyanet | 2017-05-22 08:35 | 塾長おすすめの場所 | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 21日

受験と情報

3月に卒業した成績最上位の2人が、「寺子屋の後輩へのメッセージ」の欄に、2人揃って「先生を信じろ!」「鳥羽先生を信じる。」と書いていました。この数年だけでも毎年11月の進学説明会において、修猷館生、城南生の複数名から「先生を信じて」という言葉が飛び出したことも記憶に新しいです。

生徒たちの多くがこのようなメッセージを後輩に残す意識の背景として、先生の言を信じ、それを着実に実行すれば必ず合格できるという事実を、後輩たちに伝えたいという思いがあるのはもちろんですが、一方で、最上位校を目指す生徒たちにとって、いかに信頼関係が成立した間柄であっても、時に「先生を信じる」ということが難しくなる瞬間があるという事実を示唆しています。


学校にいる大手塾の生徒たちが見せびらかすテキストがやたら良いものに見えることもあります。
個人にとっては本来意味のないはずの大手塾の合格者数の数字がきらびやかに見えることもあります。
また、隣にいる親の心が揺れているせいで、自分まで不安になる子がいます。
こういう不安というのは或る意味しかたがないです。逆に大手塾に行っていても、不安になって寺子屋に移って来る親子は毎年います。

それでもやっぱり揺れない子のほうが有利です。揺れた子の学力はどこか貧弱になりがちです。
きちんと結果を残している塾の授業というのはそれだけで完結しているので、他の塾のテキストをやるのは、単に余計なことですから。そして、いま通っている塾を「どこかで信じていない」というのは、その子が学習する密度を決定的に低くしてしまうところがあるのでしょう。



今年の春は珍しいことに、この時期に新中3生が2名退塾しました。
塾の学習にすっかり馴染み、寺子屋のやり方に高い順応を示していた2名だっただけにとても驚きました。
そして、退塾するときというのは、本人というより親の不安が強く作用しているということを改めて感じました。

これまで当校から転塾した生徒たちのその後を聞いたとき、私たちが想定した以上の成果を残した子どもというのはとても少ない、むしろなぜそんなことになったのかと愕然とすることが多いというのが現状です。辞めてそのあと結局戻って来た或る子と話したとき、彼女は「寺子屋で習った単元だけ密度がすごく濃くて、他はすごく薄い」と言いました。彼女の印象がどこから来るかと言えば、当校は私ひとりでほぼ全ての中学生の授業のテキストを作り、それに基づいて「ストーリー性のある授業」をやっているので、塾を途中でやめたら、その物語が途中で分断されてしまうんです。だから、塾を辞めた後は、その後の単元のストーリーの密度がやたら薄れて見えてしまうという事情があります。教える人が教科や時期・学年によって変わる塾や、個別指導の指導者が転々とする塾に通っている子どもにはこういう現象は起こらないのですが、当校に通っていて、途中で塾を離れた生徒には必ず起きる現象です。

辞めた子が進路先について、なぜそんなことになったのかと愕然とするような選択をすることがある理由としては、進路指導の脆弱さも関係しています。本来、生徒に対する進路指導は、その子が受ける学校の全科目の過去問の傾向を知っていて、かつその生徒の全科目の状況を知っていなければ、的確な指導は難しいです。例えば西南学院高校の専願は数英の2科目受験、一般前期は国数社理英の5科目受験、そして一般後期は国数英の3科目受験(今年度から西南の後期入試はなくなりましたが)と、受験科目が異なります。ですから、例えばその子が西南の数学過去問との適性が抜群に高いと判断すれば数学の比重が高い専願を是非とも受けたほうがいいよと勧めますし、むしろバランス型(5科目満遍なく得点をとるタイプ)で、英数が特別に良いというわけではない生徒の場合は、前期入試を勧めることになるでしょう。そういった意味で、1科目だけ教えて、1科目だけ過去問の傾向を知っているような先生が、生徒に的確な進路指導をすることは極めて困難です。1科目も教えていないのに、その生徒の成績表だけ見て判断するような指導は、はっきり言って単なる当てずっぽうです。

これは、ご自身が中学校の先生である或るお母さまにお伝えいただき、そうかと思ったことですが、高校入試を受ける寺子屋の生徒たちの特権は、生徒の5科目の状況をつぶさに知っている人間が進路指導をするということです。そのために、こんなはずじゃなかった、というようなあとで後悔するような受験になる可能性が極めて小さいということであり、あやふやな情報ではなく、確実な情報を得ることができるという意味で、受験を迎える親子にとって決定的に重要なことではないかと考えています。




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by terakoyanet | 2017-05-21 08:21 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 19日

情報戦

情報に翻弄されて不安になっているときは、一度立ち止まって深呼吸をして、自分の足元を見つめ直した方がいい。その不安は他者に対する不安ではない。あなた自身の不安なのだから。電話の向こうの人に、そう話をしたくなることがあるけれど、正面切ってそんなことを言うのは難しいです。

不安を解消したいという欲に突き動かされている人に、いや大丈夫と話しても、全く効果がないどころか、むしろその欲を制止・抑圧されるとその人に感じさせれば、反発が生じたり、ときには忽ちに目の前からいなくなってしまったり。

不安→かりそめの安心→不安 を繰り返すのは苦しい。
不安は情報に翻弄されるから生じます。たくさんの情報があるのに、その中に、何一つ寄りかかることができる確固たるものがない、だから不安は増長します。

でも、情報の本質はそういうものです。それは人生の滋養になりません。
情報は、自分の心と身体を使って得られたものではないでしょう。そんなものに流される人生は、荒波に翻弄される小さな木の枝同様に、浮き沈みを繰り返したのちに、早々と朽ちていきます。

情報が人の人生を朽ちさせるようなものなら、そこから距離を置く工夫をしましょう。
情報に頼るのではなく、自分の嗅覚に頼りましょう。

その嗅覚は決して確固たるものではない。だから、そこに不安があれば、再び情報に頼ろうとするかもしれません。
でもそこは踏ん張りどころです。辛抱が必要です。人とモノに心を寄せるというのは、本来的に苦しいことですから、覚悟が必要なんです。
嗅覚に頼るというのは、独断に陥ることではないんです。匂いはその都度に変化します。自分自身もその都度に変化します。その変化に対する感受性を研ぎ澄ますこと。そしてその変化自体を受け入れること。それが私たちに求められている生きのびるための知恵ではないでしょうか。


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by terakoyanet | 2017-04-19 08:54 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 14日

寺子屋ブログ10年

寺子屋ブログは2007年4月13日に開設しました。
2017年4月13日の昨日で、ちょうど10年が経過しました。

寺子屋ブログは、このページを見てたくさんの方が入塾してくださったという意味では本校の広告塔であり、そして、まだ出会っていない方々と当座の心を繋ぐ場であり、そして現在、寺子屋に通う子どもたちやご家族と考えを通わせるきっかけを作る場でもありました。

これまでのアクセス数は209万を超え、日々、多くの方に読んでいただいていることに感謝をしています。
今日は、これまでに書いた2000ほどの記事の中から、10だけ記事をセレクトしてご紹介します。


自閉症とは何か
 2007年6月29日
ブログを始めた年の6月に自閉症の子どもたちとの出会いについて書いたものです。
今年、この文章を大幅に改定して「障害のある子どもと親」というエッセイを書きました。
そのうちこちらでもご紹介できればと思っています。


縦の関係、横の関係 2008年10月7日
私は生徒たちとの「横の関係」を重んじていますが、「横の関係」を利用して「縦の関係」による実力行使を行うこともあります。本校の指導についての考え方の基礎になる話です。


坂口恭平「独立国家のつくりかた」を渾身の愛情でもって書評します。 2012年6月13日
この10年で私が最も面白かったと思っている本、坂口恭平さんの「独立国家のつくりかた」を発売まもない時期に熱く書評しています。こちらの著書、発売から5年経ちましたが、いまだにロングセラーを続けています。坂口さんは昨年の秋にとらきつねのイベントでお呼びし、当校の生徒たちとも触れ合う機会がありました。


松竹景虎君の作文 2014年6月6日
本ブログには、いじめに関する記事がたくさんありますが、長崎県新上五島町で2014年の1月に自殺で亡くなった松竹景虎くんの作文を扱ったこの記事は、未だに圧倒的にアクセスの多いものです。この記事の中で私はももクロを扱いましたが、この記事には後日談があり、実はももクロのメンバーがお忍びで松竹君の実家までご家族に会いに行ったそう(すごいですね!)で、ももクロファンの方が、ももクロと松竹くんを繋いだブログとして本記事をTwitterで拡散してくださったこともありました。私は指導者として決して子どもたちを「空気」で追い詰めないことを心に誓っています。


子どもの自立 -親の不安を子に伝播させないこと- 2014年9月18日
親の不安は子どもを揺さぶります。子どものことが心配、そう親が思っているときは、本当は自分自身が不安なだけなんです。この文章も、今年大幅に改訂した文章を書きました。こちらもいつかご紹介したいと思います。


単なるネタとしてではなく。 2015年2月2日
2015年2月1日に、後藤健二さんが殺害されて、日本中に衝撃と慟哭が広がりました。
そのときの中学生たちのメディアの情報を受け止める感度や、それに接する方法に対して異議を唱えた文章です。


バリで出会った人たち  2015年10月26日
バリ島で出会った快活なオランダ人夫婦ダーンとリサ、ヌーディストのオーストラリア人夫婦、ジェニファーとジャック、ゲイのカップルのヨンジュンとアントン。彼らとの交流を描いた物語です。


マラケシュの神学校、マドラサ・ベン・ユーセフ  2015年11月23日
モロッコの神学校のことを書いているうちに、中学時代のいじめについて、学問と祈りについて、思考が及んだ話です。


バニュワンギ郊外にあるミコさんのお宅を訪問  2016年1月19日
ジャワ島を訪問した時の専属ガイド、ミコさんのお宅を訪問したお話し。可愛い子どもたちとの交流、手作りの小学校。そしてミコさんによる西洋人とアジア人の「消費」をめぐる考察。


オバマ氏の広島演説  2016年5月28日
2016年5月にアメリカ大統領として初めてオバマ氏が広島を訪問しました。
その際のオバマ氏の演説を紹介、解説したものです。この文章は、アゴラ(言論プラットフォーム)に掲載されました。


寺子屋ブログ、これからもよろしくお願いします。

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by terakoyanet | 2017-04-14 12:36 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 10日

最初の授業で生徒たちに伝えたこと

昨日は新中1の新年度最初の授業でした。
賑やかで、かつ真剣な授業となりました。


以下は最初の授業で生徒たちに伝えたことです。


寺子屋の授業を受けるにあたって、特に大切な2つのこと

①まずは授業中にとにかく集中すること
授業中に全て吸収して全て覚えて帰る意気込みで、いま、授業中に集中すること。一番差がつくのはいま、授業中であることを意識すること。勉強においていつも高い成果を上げている人たちの共通点は、授業中に習ったことをその場で9割以上、しっかり覚えて理解することができているということです。

②宿題をきちんとやること そして宿題をやるとは何か考えること
寺子屋の宿題は、とりあえず出せばOKになるような学校の宿題とは違います。とりあえず埋めていたらいいというようなものではありません。
漢字を何文字書いてきても、単語を何ページ書き込んできても、計算問題をどれだけ解いていても、毎回行われる宿題の確認テストで点数が取れなければ、宿題をしたと評価しません。だから、理解すること、覚えることにこだわった勉強が必要です。何を覚えたらよいか、解けるようになればよいかは毎回きちんと伝えますから、毎回それをきちんとこなしてください。そうすれば、必ず定期テストで点数が取れるし、受験で合格できる力が身につきます。


昨日は数学のテキスト「必修テキスト」が配布され、それの解き方についても話をしました。

②に関連して、まず、必修テキストの解き方・使い方として、答えをうつすなんてバカげたことは絶対にしないこと。答えをうつして表面だけ整えて提出するくらいなら、初めから何もしないで。正々堂々とやっていないところを見せて。答えをうつしてやったふりをするのが一番バカらしい行為で、何の意味もないどころか、テキストと時間と労力がもったいない。人生の時間というのはそうやって使うものではありません。


以上のことは、寺子屋の授業に参加するみんなの大原則です。
いつも頭と心に携えて(たずさえて)、授業に臨んでください。




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by terakoyanet | 2017-04-10 05:59 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 03月 21日

今日は16年目スタートの朝。

昨日、春うららマーケットにご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
オープンからしばらくの間は行列が途絶えることなく続き、途中からは雨も降ってきましたから入店まで1時間弱お待たせした皆さまに(小さい子を連れた方も多く)申し訳ない気持ちでした。

でも、マーケットが盛況だったことはとても嬉しくありがたいことと、出店された皆さんと喜びました。
会場を植物で埋め尽くしてくださった花屋マウンテンさんをはじめ、出店された方々のプロフェッショナルさに驚愕し感激する1日でした。

たくさんの卒業生も顔を出してくれました。長濱先生も喜んでいましたよ。みんなありがとう。

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かるべけいこさん(自然料理家)、城慶典さん(ミツル醤油)、野中元さん(写真家・百姓)をゲストに迎え、山内泰さん(ドネルモ代表・㈱ふくしごと取締役)が司会を務めたトークライブは素晴らしく豊かな時間でした。

お客様たち、出店・出演の皆さま、そして寺子屋・とらきつねのスタッフの皆さん、ありがとうございました。とても楽しい1日でした。


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今日、3月21日に唐人町寺子屋は16年目(15周年)の朝を迎えました。(とらきつねは3年目(2周年)。)
当時25歳だった私は40歳になりました。
私の精神は未成熟なままですが、寺子屋という塾はその間に随分成熟しました。

今年は寺子屋の成熟をますます皆さんに還元するときだと思っています。
目の前にいる生徒の「いま」に誠実に向き合っていきたいと思います。


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by terakoyanet | 2017-03-21 09:48 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 20日

もっと疑う力を。

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この画像の問題は、二酸化炭素濃度の上昇が、いかに地球の平均気温を上昇させているかということを類推するという、中3理科で頻出の問題ですが、私はこの問題を指導するときに、強い懸念を覚えます。

この2つのグラフを見て、「二酸化炭素濃度の上昇にともなって、平均気温も次第に上昇している。」と答えることができた生徒は正解となるのですが、私は、このような問題に子どもたちを馴れさせたくないと感じています。

この2つのグラフだけを見て、その2つを関連付けることは、とても恣意的です。
この左のグラフが右上がりになっているからと言って、それが右のグラフに直接的な影響を与えているかどうかなど本来はわからないはずです。(もしそれでOKなら、代わりに何か適当に右上がりのグラフを持ってこれば何だって成立することになります。) それなのに、何の疑いもなく、この2つのグラフに相関関係があることを読みとらせる、これは、疑う力を鈍らせます。恣意的な情報操作に騙されやすくなります。

むしろ私たちに必要なのは、そこに本当に相関性が存在するのかを疑い、見極める力です。それこそが生きる力につながります。もっともっと「疑う」力をつけることが、私たちにはどうしても必要です。




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by terakoyanet | 2017-01-20 01:43 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 09日

ご心配をおかけしました。

新年早々の体調不良で大変ご心配をおかけしました。
センター、早稲田佐賀入試、専願入試の直前というタイミングで高熱が出てしまい、どうするべきか迷いましたが、できるかぎり、長濱先生など信頼できる先生方にお仕事をお任せすることで乗り切る方向にいたしました。

それでもやむを得ず休講になった授業等もあります。
補講が可能なものに関しては、改めてご連絡いたします。

明日からは万全を期した形で復帰できそうです。
たくさんのご心配をいただきました。本当に申し訳ありません。

今晩はセンター試験直前の現代国語の授業が行われました。
私がいない状況でどうやってこの最後の授業を乗り切るか考えた結果
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分刻みのスケジュールと、私の言霊(今日の授業で話すはずだった解説のすべてを書いた解説用紙)を肘井先生に託して授業を運営してもらうことに。センターを目前にした高3たちへのメッセージも託しました。何か伝わるものがあればと切望しています。

長濱先生と肘井先生には(さらに他の先生方にも)大変難しいお仕事をお願いしました。本当にありがとうございました。


冬期講習を終え、いよいよ明日からは3学期のスタート。1年の総仕上げが始まります。




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by terakoyanet | 2017-01-09 22:17 | お知らせ | Trackback | Comments(0)
2016年 12月 03日

ミコさんとGoogle 翻訳

今年のはじめにジャワ島で知り合ったミコさんのお宅を訪問した記事を書いたことがあったのですが、そのミコさんからFBでメッセージが届き、家族の近況のほかに、上記の記事を読んだこと、そして寺子屋ブログを楽しんでいるということが書かれていました。

ミコさんによると、Googleの翻訳機能が最近劇的に改善したらしく、それでこちらのブログを日本語→英語に翻訳して読むようになったとのこと。

ミコさんがメッセージで感想を寄せてくれたのは昨年の11月に書いた「マラケシュの神学校、マドラサ・ベン・ユーセフ」という記事で、それを読んでくれた彼の感想がそのまま、彼がその記事を丁寧に読み解いてくれたことを物語っていて、冗長な文章を読んでくれた彼に感謝するとともに、(この文章だって読んでくれるかもしれない!)Google 翻訳ってほんとうにすごいのだな、と驚かされました。

以下にミコさんが読んでくれた記事とその訳をあげますが、確かに、主語や代名詞の取り違い、動詞や俗語の誤訳など、大きな問題が散見されるものの、しかしかつての翻訳とは比べ物にならない精度で、確かにこれならば、辛抱強く読めば、ある程度使い物になると感じました。今後、もっともっと翻訳技術は向上していくのでしょうね。今回の翻訳の進化は、「文章をパーツごとに翻訳するのではなく、ひとつの文として扱う」ニューラルネットという方法の採用によるものということですが、それを支えるアルゴリズムっていったいどうなっているんだろうと、その深い穴を覗いてみたくなります。

―――――
(和文)

マラケシュで最も印象に残っている場所をひとつ挙げるように言われたら、迷わずマドラサ・ベン・ユーセフが最初に頭に浮かぶ。

マドラサというのは神学校(高等教育機関)のことで、ここベン・ユーセフは16世紀に建てられたマラケシュ最大の学校である。最大とは言っても、メディナの迷路の中で、何の変哲もない外壁に囲まれたこの建物を見つけることは容易ではなく、ツアリストたちは、地元の人―ときには炎天下の中、別の場所に連れ回されたあげく不当な案内料を請求するガイドたち―の世話にならないと、なかなかたどり着けるものではない。

ようやくたどり着いて、この建物の中に入った人たちの多くが驚きの声を上げるに違いない。そこは、一歩足を踏み入れると、まさに別世界。たった数秒前に味わった喧騒が嘘のような静寂。

体に纏わりついた熱気をふるい払うかのように首を縦横に振ったあと、ゆっくり深呼吸をする。そうやって心身の状態を切り替えると、とたんに眩暈がするような緻密な美しさが体の中に染みるように入っていくのを感じる。

イスラム建築の美しさは、内部にその美を秘めているところにある。
外観だけを取り繕おうとする美が多い世界の中で、外観では想像もつかなかった精密な美の世界が内部に宿っているのを目撃するのは、それだけで非常に眩(まばゆ)い経験だ。壁面は鮮やかながら、すべてがアラベスクの幾何学模様で飾られているために、知性的な落ち着いた雰囲気を感じる。

マドラサが私に強く印象を残したのは、その建物が、全寮制の学校としての形をそのまま保存していたからである。鮮やかな壁面をもつ中庭と礼拝室の周囲は、2階建ての寮室群に囲まれていて、その寮室ひとつひとつを覗き見ることができた。

寮室はとても質素なつくりで、外光をうまく取り入れることができる構造になっている。この禁欲的な部屋で勉学に打ち込んだかつての学生の姿を想像した。

神学校と言ったところで、きっとほとんどの人にとって縁遠いものと思われるに違いない。でも、私自身は人生で、神学校という存在を身近に感じた時期がある。

私は実家がカトリックで幼少のころから毎日教会に通っていて、少年時代に、約十年もの間「ミサ答え」と呼ばれる神父の侍者を経験した。そして、中学に上がるときに、教会の神父やシスターたちから「神父にならないか」と声がかかった。ひとつ上の姉が、すでに修道院に入っていた私にとって、その誘いはあまりに現実的で切実な声で、大人の声に応えなければならないのだろうか、と考えた時期があった。でも周囲の懸命な教えにかかわらず神の存在の是非についてさえも保留していた私は、自分には意志も適性もないということがわかっていたので、それを拒否した。人生で初めて意識的に自分の意志を示したのはこのときだったと思う。

普通の公立中学校に入って驚いた。突然、大人たちが本音で語りだしたように見えた。こんなに醜い世界に住んでいたのかと、大人の偏狭さと、学校という狭い世界で起こるさまざまな理不尽さに慄(おのの)いた。
小学校からの大切な友人、最も身近な友人がいじめに遭った。彼は成績優秀で頭の回転が早かった。そして嫌味にならないユーモアと優しさを兼ね備えていて、私はそのキャラクターが羨ましかった。そんな彼が、「ガリ勉」のレッテルを貼られ、その人格を矮小化された結果、一部の人間に疎まれ、単なるストレス発散のはけ口として暴力を振るわれた。それが日常的に続いた。何もできない私は何度も学校の先生に相談しようと思った。周りの友人たちは自分の身を守ることで精一杯だったのか、誰もそんなことは口に出す雰囲気はなかった。次はわが身なのである。もう諦めている、というか、ただ我慢していまをやり過ごす、そう考えているように見えた。先生に相談しようと私は手紙まで書いたが、結局のところ渡せずじまいだった。私が単に意気地なしだったのであろうが、そのときは信頼できる大人がいないことを恨んだ。なぜ大人の誰かが手を差し伸べてくれないのかと思った。

ある夜私はおもむろにふとんから出てふとんの上に跪(ひざまず)いた。そして人生で初めて神様に祈った。
「○○くんを助けてください。○○くんを助けてあげられなくてごめんなさい。」
その夜から、毎晩親に気づかないようにふとんから出て、ふとんの上に跪き、神様に祈った。「○○くんを助けてください。」
祈りをささげるときにぶるっと震えながらつけた、電気ストーブの肌を焼くようなひりひりとした熱さを昨日のことのように思い出す。

マドラサ・ベン・ユーセフの質素な寮室を覗き見したとき、神と近しかった過去のことが鮮やかに蘇った。かつてこの部屋で学問に勤しんだ学生の孤独に懐かしみと親しみを覚えた。
きっと学問と祈りというのは近接している。学問は、祈りと同じような深厚な動機がなくては、成しえないもの、私にはそう思える。私にとって、祈りはやや縁遠いものになってしまったけれど、マドラサ・ベン・ユーセフは、学問と祈りとが折り重なる場所として、私に深遠な印象を残した。


―――

(English - Google Translate)

If you are told to mention one of the most impressive places in Marrakesh, Madrasa Ben Youssef comes to mind first without hesitation.

Madrassa is a seminary (higher education institution), here Ben Youssef is the largest school in Marrakech built in the 16th century. Even so, it is not easy to find this building surrounded by any exotic wall in the Medina's maze, the tourists are a local person - sometimes in a blazing sun, in a different place It is not something that you can not reach easily unless you become care for the guides who requested an unreasonable guidance fee brought back to you.

Finally arrived, many of the people who entered this building will be surprised. That is exactly a different world if you step one step. The tranquil taste just a few seconds ago is a lie silence.

Take a deep breath slowly after swinging the neck vertically and horizontally as if sifting through the body warming up. By doing so, when switching the state of mind and body, I feel that a precise beauty like a dizzy will soak in the body.

The beauty of Islamic architecture lies in its inner beauty.
Witnessing the world of precision beauty that did not imagine in the appearance in the world where beauty is solely trying to repair only the appearance is witnessing that it is very dazzling It is. The walls are bright but all are decorated with arabesque geometric patterns, so they feel intelligent calm atmosphere.

Madrassa left me a strong impression because the building preserved the shape as a school of a boarding school as it was. The courtyard with a brilliant wall and the surroundings of the worship room were surrounded by two-story dormitory groups, and I was able to look into each dormitory room.

The dorm room is very simple and has a structure that can incorporate external light well. I imagined the appearance of a former student who devoted studies in this ascetic room.

I am sure that it seems to be far from most people, just as I said the seminary. However, I myself have a time when I felt close to the existence of the theological school in my life.

My parents are Catholic and go to church everyday from childhood and in a boyhood I experienced a priest's priest called "Mass answer" for about ten years. And as I went up to junior high, the church's priests and sisters got a voice saying "Will not you become a priest?" For my one older sister who had already entered the monastery, there was a time when I thought that the invitation would be too realistic and furious to respond to the voice of an adult. But I refused, as I knew that neither will nor aptitude was for myself, even though I was holding on even the pros and cons of God's existence regardless of the hard teachings of the surroundings. I think that it was this time that I showed my will consciously for the first time in my life.

I was surprised at entering an ordinary public junior high school. Suddenly, it seemed like the adults started to talk in real intention. Were you living in such an ugly world, shivering for the narrowness of adults and the various unreasonable things that happen in the narrow world of school.
An important friend from an elementary school, the most familiar friend got bullied. He was excellent in grades and his head was quick. And I combine humor and kindness which is not disgusting, I envied the character. Such a person was affixed the label of "girls studies", and as a result of its dwarfing of its personality, it was misleading by some human beings, and was violent as a mere source of stress dissipation. It continued on a daily basis. I could not do anything I tried to consult with my teacher many times. Were all my friends all I could do to protect myself, nobody had the atmosphere to say such a thing. Next is ours. It seems that he is thinking that he is giving up, or just overriding patience and passing through now. I wrote letters to talk to the teacher, but I could not hand it over after all. I would have merely been unwilling, but at that time I hated that there were no reliable adults. I thought why some adults would not reach out.

One night I gradually went out of the futon and kneered on the futon. And I prayed to God for the first time in my life.
"Please help me, I'm sorry I can not help you, ok."
From that night, I came out of the futon not to notice my parents every night, I kneered on the futon and prayed to God. "Please help me ○ ○."
I remember as though it was yesterday 's hotness that burns an electric stove' s skin burning while trembling when praying.

When I looked into the frugal dormitory room of Madrasa Ben Youssef, the things that were close to God revived vividly. I felt nostalgia and familiarity with the loneliness of students who used to study in this room.
Surely science and prayer are in close proximity. I think that science is something that can not be done without a deep motive similar to prayer. For me, prayers have become somewhat far away, but Madrasa Ben Youssef left me a profound impression as a place where academics and prayer fold over.


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by terakoyanet | 2016-12-03 03:29 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)