性急(せっかち)な思想  石川啄木

本日の高校コース授業(国語)の授業原稿です。実際の授業では、ゼミ対話形式でたくさんの質疑応答と説明を織り交ぜて講義を行っています。


『性急な思想』 石川啄木 論旨 (ページ数は岩波文庫)


p92 「近代的」という言葉の意味は、「性急なる」という事に過ぎない



◇問題提起1 
本来「近代化」という時代と人間の改革は、一人ひとりの反省に基づいたものでなければならないのではないか。

p92 人は、自分が従来服従し来ったところのものに対して或る反抗を起こさねばならぬような境地に立至り、そしてその反抗を起した場合に、その反抗が自分の反省(実際的には生活の改善)の第一歩であるという事を忘れている事が、往々にして有るものである。


◇問題提起2 
人は本来の目的を没却し、性急になりがちである。これは結果的に、道徳上の破産どころか自己そのものの破産につながる危険なものである。

p92 建設のための破壊であるという事を忘れ、破壊のために破壊している事があるものである。戦争をしている国民が、より多く自国の国力に適合する平和のためという目的を没却して、戦争その物に熱中する態度も、その一つである。そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な心持はない。

p93 [本来の目的を忘れ、破壊のための破壊になってしまっている人の考え方の例]
→本来、男女の関係は全く自由であって、夫婦がそれぞれに浮気をしたって何したって自由だー、むしろその自由さに気づかないなんて哀れだー!
その結果は、啻に道徳上の破産であるのみならず、凡ての男女関係に対する自分自身の安心というものを全く失って了わねば止まない、乃ち、自己その物の破産である。



◇問題提起3 
時代の弱点を共有して喜んでいる人間が多くいるが、どんな場合においてもどんな意味においても、それは恥ずべきことではないか。

p94 自分の神経作用が鋭敏になっていることを、近代人の人間の1つの特質としてとらえ、かえって喜ぶ人間がいる。また、そうでなければ「新らしい詩」「新らしい文学」は生まれないと考える詩人がいる。しかしこういったものは全く不必要なものなのだ。

p94 時代の弱点を共有しているという事は、いかなる場合のいかなる意味においても、かついかなる人に取っても決して名誉ではない。



◇問題提起4 
日本人の持つ「性急な心」という性癖のせいで、我々は実際上の問題の本質を見逃しているのではないか。

p95 武士道→実際上の問題から人々の目をそらすための迷信家たちによる道徳秩序

p95 自然主義文学→「物事の本質をありのままにみる」ことをウリにしながら、実際には時代の弱点を自己の内面で飼い馴らし、それを共有することに喜びを感じているにすぎない文学。

p95 文芸家や近代人気どりの人たち→夫に忠実な妻や妻に忠実な夫を笑い、神経の過敏でない人を笑い、国家について真面目に考えている人を笑う =実際上の問題を軽蔑し、あらゆる物事を斜めに見ることが文芸家、近代人たるものだとする勘違いが横行。

⇒こんなことでは、本質的な人生の考察、国家の考察はできない。


◇まとめ 
性急な心は目的を失った心であり、足を地から離した心である。目的を失った心は、その人の生活の意義を破産させる。仮に性急な心を持つことが「近代的」というものであるのならば、私たちはそこから寧ろ自ら退いて、自身が「非近代的」であることを誇るべきである。私たちは強い信念を持って自己の生活その物を改善する努力をしなければならないのである。

p96 目的を失った心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。人生の問題を考察するという人にして、もしも自分自身の生活の内容をなしているところの実際上の諸問題を軽蔑し、自己その物を軽蔑するものでなければならぬ。自己を軽蔑する人、地から足を離している人が、人生について考えるというそれ自体が矛盾であり、滑稽であり、かつ悲惨である。

p97 自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というものであったなら、否、いわゆる「近代人」はそういう心を持っているものならば、我々は寧ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く「非近代的」である事を恃み、かつ誇るべきである。そうして、もっとも性急ならざる心をもって、出来るだけ早く自己の生活その物を改善し、統一し徹底すべきところの努力に従うべきである。



この文章をひさびさに読んでみて私が感じたのは、批評としてはこの文章は若い(青い)ということだ。
この文章は啄木24歳のときに書かれたものだが、啄木はかつての自分自身ドロップキックを決めるかのごとく論を進める。

人が誰かを痛烈に批判するとき、往々にしてそれは批判対象に過去の自身の姿を投射することでなされるが、その意味では、この文章でやり玉にあがる自然主義文学もdecadentも彼自身が通ってきた道。
彼が自分の通ってきた道を何かの儀礼のようにひとつひとつ潰していくさまが、とても若々しくて、啄木がこれを書いたときの切実な息遣いが聞こえてくるような気がした。

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by terakoyanet | 2009-11-07 04:26 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)