森鴎外 妄想
2009年 12月 05日
白髪(初老)の主人が、過去の自身の精神遍歴を語る形式の小説。
要所がつかみにくい、とりとめのない話。
<高校生に配布したテキストは小説の一部がカットされています。カットされた冒頭部・結部は授業中にみんなで音読して鑑賞しましょう。>
[第1連]
いつ? 自分がまだ二十代で…内には嘗て挫折したことのない力を蓄へていた時の事
どこ? ドイツのベルリン
何をしてる? (大学の)講堂や研究室で自然科学(医学)の研究
夜長に一人で…。
①Nostalgia(郷愁)を感じるときがある
…故郷に思いをはせる。(人生における深い苦痛ではない。)
②調子よく仕事をするときがある…余念もなく夜を徹して仕事をすることも。
③仕事が全く手につかないときがある
・・・神経が異様に興奮して、心が澄みきっているのに、書物を開けて、他人の思想の跡を追いかける気にならない。⇒心の飢えを感じ、自分の思想が自由行動を取り始める。(=妄想)
[妄想の中身]
・生というものを考える。自分のしている事は、その生の内容を充たすに足りることだろうか?
・生まれてこのかた自分は何をしてきたのだろうか。始終何物かに鞭打たれ駆られているかのように学問ということに齷齪している。しかし、自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているにすぎないように感じられる。その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えてみたい、背後の何者かの面目を覗いてみたい・・・と思いながらも、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役が即ち生だとは考えられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。しかしその或る物は、目を醒まそう醒まそうと思いながら、うとうと眠ってしまう。一寸現れそうになったら、直ぐに引っ込んでしまうのだ。
④眠れないときがある
…こんな風に舞台で役を勤めながら生涯を終わるのかな・・・と思ったりする。
留学生仲間の死。
その男の死に顔を見たとき、ひどく感動。自分もいつか何らかの病気に感染して、こんな風に死んでしまうかもしれない・・・とふと思う。そしてこのままベルリンで自分が死んだら、故郷では親や弟が嘆くだろうなあと想像する。
[第2連]
いつ? ドイツ留学が終わって帰郷するとき
ドイツ…師匠の国。何でも学べる、書物も豊富、便利な国。
日本…恋しくて美しくて懐かしい、夢の国。
帰郷に際して、ドイツと故郷(日本)を天秤にかける
「自分の願望の秤も、一方のさらに便利な国を載せて、一方の皿に夢の故郷を載せたとき、便利の皿を弔った緒をそっと引く、白い、優しい手があったにも拘わらず、慥かに夢の方へ傾いたのである。」
日本通のドイツ人の弁…日本(東洋)には自然科学を育てていく雰囲気はない!一刀両断。
⇒しかし、自分は日本人をそう絶望しなくてはならないほど、無能な種族とも思わなかった。
よってまだ現在のところは自然科学を育てる素地ができていない、と考えていた。
・・・とは言っても実際帰るとなると陰気なモードに包まれる
「自然科学の分科の上では、自分は結論だけを持って帰るのではない。将来発展すべき萌芽をも持っている積りである。しかし帰って行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少なくとも「まだ」無い。その萌芽も徒に枯れてしまいはすまいかと気遣われる。そして自分はfatalistishな、鋭い、陰気な感じに襲われた。」
この陰気な闇を照破するのに、ショオペンハウエル等の哲学は意味をなさなかった。セイロンで買った青い鳥も横浜に着く前に死んでしまった・・・。
[第3連]
いつ? 帰国後
帰国後、故郷の人たちの期待に反して、保守的な「本の杢阿弥説」を唱えるようになる。
「洋行帰りの保守主義者・・・元祖は自分であったかも知れない」
例)①建物の高層化に異論
・・・「今まで横に並んでいた家を竪に積み重ねるよりは、上水や下水でも改良するのがよかろう」
②東京の家屋の軒の高さを一定にするという案に異論
③肉食化に異論
④仮名遣いの改良に異論
その後、自然科学(医学)の研究者世界から身を引く。
「地位と境遇とが、自分を為事場から撥ね出した。自然科学よ、さらばである。」
自分は「業績」「学問の推挽」とかいうような造語をつくった。
一方で、まだForschungを正確に訳す語がないのは、社会がその必要性を感じていないからである。いまだ日本の自然科学は育つ雰囲気がないのだ。
[第4連]
「未来の幻影を追って、現在の事実を蔑ろにする自分の心は、まだ元のままだ。」
「どうしたら人は自分のことを知ることができるだろうか。省察によってでは決して知ることはできない。しかしながら、行為によってならばあるいは知ることできるかもしれない。あなたの義務を果たそうとしなさい。そうしているうちに、やがてあなたの価値というものを知るだろう。では、あなたの義務とは何か。それは日々の要求である。」byゲーテ(私の勝手な意訳です)
「日の要求を義務として、それを果たして行く。これは丁度現在の事実を蔑ろにする反対である。自分はどうしてそういう境地に身を置くことが出来ないだろう。」
「日の要求に応じることで、なすべきことを終えたと感じるには、足ることを知らなくてはならない。足ることをしるということが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいない筈の処に自分がいるようである。道に迷っているのである。夢を見ているのである。」
「自分はこのままで人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知って居る。」
こんなことを書いたら、乱暴すぎるかもしれませんが、私は芸術家(または人間)には大きくわけて2つのタイプがあると思います。
1つは「死を怖れる」タイプ。「明日の朝起きたら私はもう死んでるかもしれない」
そういった刹那感のもと日々過ごしている人たち。
もう1つは「生を享受する」タイプ。死の怖れよりも、あくまで生というテーブルの上で嘆いたり笑ったりする人たち。
例えば、モーツアルトは前者。彼の音楽のあの追い立てられるようなぞっとする疾走感は、死の恐怖でなくて何なのでしょう。
ベートーベンは後者。彼の音楽は生の営みのなかにおけるさまざまな感情が見える気がします。
これでいくと、夏目漱石は前者、森鴎外は後者、という印象があります。
また、哲学は前者のためにあり、文学は後者のためにある、という印象もあります。
もちろんこんなタイプ分けは、作品を深く読み解いていくと瓦解する、というかボーダレスになっていくわけですが、ただ、全体のイメージとしては、そういう感じがあります。
今回の鴎外の「妄想」は、前者タイプの人たちに対する戸惑いと、後者タイプの人たちの典型的葛藤が描かれている気がしました。
さあ、今日も高校生が作品を読んで発表します。楽しみです。
本館7F terakoya shop blog をぜひご覧ください。
ところで僕は文体としては夏目漱石が好きですが、人間の本性を見つめる思想的なところでは鴎外が近代文学において
群を抜くいていると思います。
このところ全く小説を読んでいない僕ですが、なんか先生の記事を読んで鴎外を読みたくなりました。
塾の先生方は確かに典型的なそちらのタイプの方が多いような気がします。
鴎外のこの小説の授業で発表した生徒が「鴎外はかっこつけ」と言っていて、私もその通りだなと思いました。人間を見つめるときの鴎外は、どこかかっこつけですが、それなのにどこか素朴なところが親近感がわきます。