瀬戸内海に浮かぶ毒ガス工場跡とウサギの島―大久野島―
2010年 05月 16日
瀬戸内海国立公園に指定される、美しい環境をもつこの島は、(特に)昭和以降、数奇な運命をたどって現在に至っています。
戦時中には国際法で使用が禁止されていた毒ガスの製造が行われ、そして現在はたくさんのウサギたちが観光客を迎える憩いの場所に様変わりしています。
大久野島までは、広島県の三原駅まで新幹線で行き、そこから呉線に乗り換えて忠海駅で下車。駅から徒歩数分の忠海港から船で島に渡ります。
渡る途中にはしまなみ海道の多々羅大橋が見えました。
10分ほどで大久野島に到着。
到着と同時に休暇村行きのバス(無料)に乗り込みました。
宿泊施設・レストラン等を備えています。
乗ってきた客船も休暇村客船でした。島の観光客のほとんどをこの施設が抱え込むシステムになっているようです。
整備された休暇村の施設のすぐ隣には、
毒ガス貯蔵庫の跡がぱっくりと口をあけています。
観光レジャー施設のすぐ隣に、こんなに消化不良の歴史的遺物がそのまま置かれているという状況は、全国を探してもきっと珍しい光景でしょう。
休暇村を訪れた目的は、レストランで食事をとることと、レンタサイクルを利用することでした。
レストランでの食事は、さすが宿泊施設だけあって立派なランチでした。ここらへんではタコがたくさん獲れるようで、タコ三昧の定食をいただきました。タコ天もタコめしも本当に美味しかったです!
初めに訪れたのは毒ガス資料館。
毒ガスが、どのような経緯で、どのようにしてこの島で製造されるようになったのかを学びました。当時の住民たちには毒ガスが製造されることは知らされておらず、産業振興を願っていた地元では、新工場の建設を大歓迎していたようです。まさか自然豊かなこの小さな島で、多くの人を殺傷するための化学兵器である毒ガスがつくられようとは思いもしなかった住民たちの姿が目に浮かびます。工場で従事する人たちも、はじめは自分がどれほど危険なものを取り扱うことになるかは予想できなかったことでしょう。
毒ガスの製造過程では、多くの工員が皮膚や目を冒され、重篤な肺炎や気管支炎を発症しています。
工員たちは「2度や3度、肺炎になって一人前」そんな言葉を先輩たちから聞かされており、お国のためにと病と闘いながら勤勉に職務を果たしたということです。
毒ガス工場で働いた工員たちのなかには、毒ガスを製造した「加害」者としての立場と、国から命じられて毒ガスをつくったために身体に障害を生じた「被害」者としての立場との間で揺れ続けた人たちも多かったそうです。
レンタサイクルで島に残る多くの工場跡を見学しました。
戦後、島の土壌から高濃度のヒ素が見つかるなど、いまだに島の隅々では安全が保証されていません。そのため、あらゆる場所がいまだに立入禁止になっています。
大久野島の海
この場所は、1996年の調査で環境基準の数百倍のヒ素が検出されたため、一時は立入禁止になっていたそうです。
島内で一番大きなガス貯蔵庫跡
島内を自転車で1周しました。大久野島は1周するのに自転車でわずか1時間足らずの大きさでした。
海がきれいで、風がとても気持ちよくて、すばらしい訪問でした。
そしてきっと同じように海の美しさや風の気持ちよさを感じながら、この島でガス製造に従事していた、当時の人たちのことを思いました。
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