ポスト・プライバシー
2011年 11月 01日
この時期になると、縦横無尽にさまざまな学校の問題を解くのでいろいろと興味深い。
現国の問題を見れば、その学校に属する教授たちの趣味やスタンスがある程度わかる。
旧態依然の研究職のための研究をしている先生がつくった問題なのか、骨董趣味のある先生がつくった問題なのか、はたまた現代の問題に対し機敏な反射神経をもった先生がつくった問題なのか、ということは、問題文のセレクトと設問を見れば、多少はうかがい知ることができる。
その意味で言えば、2010年度の東大のセレクトは面白い。
出題文は2009年に発刊された阪本俊生『ポスト・プライバシー』。
「個人の本質はその内面にある」という「信仰」に基づいて、各個人は内面からの統御により統一性のある自己を保持する。したがって個人のプライバシー意識は内面を中心として形成される。
これが旧来のプライバシーであるとすれば、
個人は内面性ではなく、外的にデータ化された情報とその履歴をプライバシーとしてシステムの中で評価、管理される。今日のプライバシーとは、情報化された人格や、ヴァーチャルな領域のことである。
これが著者が言うところの「ポスト・プライバシー」である。
この話は、Facebookやmixiなどのヴァーチャルな領域に、アカウント・ユーザーネームといった情報化された人格(=データ・ダブル)を持つ人たちにとっては、特に近接したトピックである。
Facebookやmixiのアカウントのなかの「私」は、単なる情報化された分身(=データ・ダブル)であったはずなのに、いつのまにか、自己のプライバシーの拠点が、分身そのもののほうに取って代わられるという事態。
特にこれはほとんどの人が実名で参加するFacebookでは顕著であろう。
Facebookの中の私は、データ化された私である割には、あまりに私とよく似ている。私との区別がつかない。
しかし、これらの話は、SNSが普及したこの数年で突然飛び出してきたトピックではない。
最近10年の、人と人の間のコミュニケーションにおける最大の変化として、個性の「キャラ化」がある。
私たちの世代が、例えば「コリン星」で生まれた小倉優子というミエミエのぶりっこキャラを初めて見たときに感じた思いがけない清々しさは、「内面」はイコール「外面(=がいめん・そとづら)」であったというあまりに明け透けなパラドックスがもたらす快感ではなかったか。「キャラ」を演じている彼女こそが「ほんとう」なのだという逆説がそこにはあったのだ。
情報化された分身(データ・ダブル)はつまり私の「キャラ化」である。
いまや、「分身」の私は「ほんとう」の私と同義である。
結果として、情報システムのなかで「キャラ化」が成功している人たちは、意外にも道徳的な気質に恵まれた人たちばかりである。彼らの社会向けの自己の「演出」に対して、多くの人が道徳的な礼儀としてその演出に賛同し加担する。
このキャラ化された人格が舞い踊る世界では、改めて「内面」を問うことは礼を失する行為となるであろう。「ほんとう」の私に対して、何をおっしゃるのですか(怒)?と。
ポスト・モダンが、モダンの精神を延命させる手段であったように、ポスト・プライバシーもまた、今日縮小している内面を拠点とするプライバシー意識の最後の砦となりえるのではないだろうか。
阪本氏は「魅惑的な秘密の空間としてのプライヴァシーは、かつてはあったとしても、もはや存在しない」というウィリアム・ボガードの言葉を紹介している。しかし、もはや、各個人が「キャラ」として存在する情報システム自体が、魅惑的な秘密の空間としての要素を次々に蓄え、今日も新世界に私たちをいざなうのである。
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