世の中のほぼすべての事柄は厳密に考えれば何もわからないのだ。

一昨日の現国の授業で熊本大学1次試験の問題を取り扱いました。
出典は中島義道の「大人になる君へ 他人のせいにしない姿勢を」とリービ英雄の「千々にくだけて」で、どちらもとても読み応えのある面白いものでした。

その日はHさんとマンツーマンの授業で、Hさんもこの2作品が面白い!読んでみよう!と感想を述べていて、現国の授業をやっていて生徒がこれ読んでみようって思うのは、授業やってる側としてもありがたい反応だなあと喜びながら授業を進めていました。

中島義道氏の「大人になる君へ 他人のせいにしない姿勢を」には次のような文章があります。



 サルトルは、感受性や思考が型通りになってしまった人間を「くそまじめな精神」と呼んで最も軽蔑した。「くそまじめな精神」は、自分や他人の「本質」から何もかも引き出そうとする。Aは「信用のおける男」だから信じていい、Bは「卑劣な男」だから付き合ってはならない、Cは「軽薄な男」だから用心しなければならない、というように。
 だが、じつは一人の人間がなぜあるときある行為を実現するかのメカニズムは、まったくわからないのだ。ある行為の「原因」はほぼ無限大であり追跡不可能であるのに、われわれは行為の「あとで」その一握りの要因を「動機」として選び出し、「それらが行為を動かした」というお話をでっち上げているだけなのである。
 動機ばかりではない。じつは世の中で解決済みとみなされている因果律、意志、善悪、自由、存在など、いったいこれらの概念が何を意味するのか、いまだに全然わかっていない。哲学をしてよかったことは、世の中ほぼすべての事柄は厳密に考えれば何もわからないのだ、ということが身体の底からわかったことである。



「世の中のほぼすべての事柄は厳密に考えれば何もわからないのだ。」
この言葉を聞いてどのように感じるかは人によってさまざまでしょう。
いまさらそんな当たり前のことを言って、だからなんだって言うの?という反応も多いのではないかと思います。


私は20代前半に哲学を学ぶ機会がありました。
哲学と言ったらやたら難しそうです。確かに難解な本をたくさん読みます。難解な話をたくさん聞きます。
しかし哲学を学ぶ上で決定的なのは、先生や友と、己の人格を賭した哲学的な語らいができるかにあります。

私にとっての哲学的体験というのは、まさに中島氏の言う「世の中ほぼすべての事柄は厳密に考えれば何もわからないのだ、ということが身体の底からわかったこと」に尽きます。その体験というのはまさに自分自身がサンドバックになって打ちのめされる凄まじいもので、自分がいかに傲慢で不遜でインチキなのかというのを思い知らされるような経験でした。



「世の中のほぼすべての事柄は厳密に考えれば何もわからないのだ。」
人や物事に対して何かを決めつけようとするときに、私たちはいつでもこのことを思い出すべきでしょう。

私たちはいつだって、ある事柄のなかから、その事柄のほんの一握りの要素を恣意的に選び取っています。しかも一旦選び取ってしまうと、それが私にとってのリアル(真実)になってしまい、恣意的に選び取った行為の記憶自体は失われてしまいます。だから私たちはほんの一握りだったはずの要素を、その事柄の「本質」であるとし、それに対して悪のレッテルをはったり、攻撃(口撃)を加えたりし、しかもそれが「正義」であると認識します。

しかし、それはとてもひどいことです。
それがとてもひどいことだということを知ること、私は何もわからないのにあたかもわかるようなふりをして発言をしており、それはとても傲慢な所作で恥ずべきことであると気づくこと、私は(あえて話を大きくしますが)このことが世の中を幸せにする大きな鍵を握っていると確信しています。



・・・
ということなどを考えながら中島義道氏の文章を読んでいました。
それにしても熊大の現国の問題はとてもいいですね。



唐人町寺子屋オフィシャルホームページはこちらです。
by terakoyanet | 2012-02-22 02:57 | 連載(読み物) | Trackback | Comments(0)