「岳」最終巻
2012年 09月 27日
次から次に新しいテキストをつくってはプリント&コピーしています。
閑話休題---
石塚真一のコミック「岳」が最終巻を迎え、先日読了しました。
Amazonレビューですでに多くの酷評をあびているさなかなので、私が上塗りする話でもないかもしれませんが、私もこの結末は残念でならなかった読者のひとりです。
(以下ネタばれあり)
17巻から図柄のトーンが暗くなり、これは嫌な予感が…作者さん、かなり精神的に参っているのではないか...などと心配していたのですが、残念ながら杞憂に終わらず。
なぜ一点の曇りもないポジティブスーパーマンの三歩が死ななければならなかったのか理解できませんでした。彼の死の必然性が全く感じられない展開。
はじめからこの作品は人間の深部をえぐるような作風ではなく、五月晴れのようなさわやかさが売りの作品のはず。多くの読者にとって、山への憧憬をこれほど掻き立てる作品との出会いは初めてで、ワクワクと胸をふるわせて作品を読み進めてきたはずです。
しかしながら最後の2巻は違う作品のように思えました。ほぼ勝算がない中で人命救助をしようとし、案の定命を落とす展開は、これまでのスーパーマン三歩の行動と明らかに矛盾しています。避けようのない事故ならともかく、最終巻の彼の死は彼自身の判断に間違えがなければ避けることができたはずです。
物語の中の死には論理的必然性が必要です。否、論理的必然性というよりは、むしろそれを超えるような、論理を捻じ伏せるほどの大きな力のはたらきが必要です。
夏目漱石の「虞美人草」では、最終章で藤尾が突然死します。その死は原因のわからない不可解なもので、読者は唐突な展開にあっけにとられます。
しかし、それまでこの物語を鋭く読み進めてきた読者はこの死に圧倒的な必然を感じます。
これまでの物語を切り裂くようなおぞましい藤尾の死が、厳しい倫理を貫こうとする作者の姿勢からもたらされたことを直観したときに、私たちは初めてこの物語の意味を知ります。
物語の中の死にはこれまでの物語の論理を逆立ちさせるような力があるのです。すぐれた文学作品のなかには必ずといっていいほどこの力が宿っています。
「岳」と同じ舞台地(北アルプス)の名作として知られる井上靖の「氷壁」。
この作品では、登山家としては隙のないはずの2人の登山家が(結果的に)死に至ります。
事故死した小坂はともかく、登山家としては隙のないはずの魚津の死には、完全無欠の登山家の死という意味で、「岳」の三歩と共通点を感じることができます。
しかし、魚津の死に読者が首をかしげることはないでしょう。やはり魚津の死に大きな力がはたらいていたことを読者は感じます。そもそも小坂が死んだ時点で、魚津は死に吸い寄せられていたのではないか、かおるは小坂の分身ではないだろうか、、、など、読者には無数の解釈をする余地があり、その余地自体が魚津の死に多重の意味を持たせます。また、彼の死によって読者は、小坂、かおる、魚津という若者たちの純粋性をそのままの状態で心に抱え持つことができます。彼らの無垢な精神がそのまま物語の余韻となり、それが永遠化するのです。
「岳」における三歩の死は、これまでの物語の論理を逆立ちさせるわけでも、論理を超えた余韻を残すわけでもない点で、彼の死についての多様な解釈の余地が読者に残されていない点で、失敗と言わざるをえないのではないかと感じています。
私の中の三歩は、今日も北アルプスの尾根に座ってコーヒーを美味しそうに飲んでいるんです。
山登りの楽しさの断片を教えてくれた三歩に感謝しながら、このまとまりのない文章を終えます。
―仕事に戻ります。。。―
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