沖縄宮古島にあるベルリンの壁
2013年 05月 01日
南国宮古島になぜドイツにちなんだ施設が!?
かつて香川にあった「四国ニュージーランド村」みたいな、イメージ先行型の中身が伴わない施設か!?と思いきや、こちらには、歴史的な由来がありました。
1873年、ドイツの商船ロベルトソン号が、うえのドイツ文化村が建っているすぐそばのリーフに座礁し、宮古や伊良部の島民たちが、船員たちを手厚く看護して救ったという話が残っているそうです。
規模は違えど、現在の中学歴史教科書にも記載されているトルコのエルトゥールル号遭難事件と同じような話が、宮古島にも残っているのですね。
ちなみにこの宮古島の美談は日中戦争のはじまった1937年に小学校の修身教科書に掲載され、美談として全国に広く知られることになったそうです。
美談というのは、民衆に対する国家の抑圧が大きい時代に、何らかの政治的意図を政治家が民衆に隠しておきたいときに使われる常套手段のようです。
2000年の沖縄サミットの際には、ドイツのシュレーダー首相が「うえのドイツ文化村」を訪れました。
現在、宮古空港からうえのドイツ文化村に至る道は、シュレーダー通りと呼ばれています。
これにはドイツ人もびっくりです。
うえの文化村の外観。
しかし、詳しい筋によると、数年前の改装で、こんなまるで〇〇ホテルみたいな外観になってしまったとのこと。城を覆っていた工事用のカバーがオープンされ、新しい城の姿が見えたときには、もうひっくり返りそうになったそうです。何なんだこの色は!と。残念無念ですね。
そんな「うえのドイツ文化村」には、超ド級の文化遺産があります。
それは「ベルリンの壁」。
もちろん本物です。
昨日、中3の授業で「ベルリンの壁」をやったので、そうだった、宮古島にはベルリンの壁があった!と思いだし、いま記事を書いています。
西ドイツと東ドイツでは同じ壁でもこんなに表情が違うのねと驚かざるをえません。
これは、西ベルリンの人たちは、壁に直接アクセスできたけど、東ベルリンの人たちは壁の前に幅100mの無人地帯が設けられ、壁に直接触れることができなかったことが原因です。
でも、この東西と主義を併記した展示のしかた(西ベルリン側―資本主義/東ベルリン側―共産主義)は、なんとなく西側の一方的なイデオロギーを感じないわけでもないななどと穿ったことを考えながら、壁を見ていました。
「うえのドイツ文化村」(←これを打とうとするとどうしても間違って「うえの動物園」ってしてしまう)は、行ってみるまでがっかりイリュージョンっぽくでどうかなと思いましたが、行ってみて、ベルリンの壁を見ることができてよかったなと思いました。
そんなことを考えながら、じっと壁を見ていました。
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