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水俣・福岡展へ

昨日から、博多駅ビル9FのJR九州ホールにて、『水俣・福岡展』が始まりました。
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私は、『水俣・福岡展』に先駆けて行われた『「水俣病」を撮る』(5月11日西南学院大学)の一部に参加しました。
私が参加したのは、1~6まであった同日プログラムの2と3。

NHK九州スペシャル「写真の中の水俣~胎児性患者-6000枚の軌跡~」(1991年)の放映が行われたあと、この番組を制作したNHKプラネット九州支社の吉崎健さんと胎児性水俣病患者の半永一光さんのお話しを聞きました。

お話しの中で、吉崎さんが何を大切にして、これまで水俣病とかかわってきたかということが伝わってきました。吉崎さんが撮影なさった番組では、発語障害を持つ水俣病患者さんたちが、必死に行政担当者らに訴える映像が組み込まれていました。障害を持つ患者さんたちの発話は聞き取りづらい部分が多く、普通のテレビ番組ならば、発話の全てにテロップがつきそうなものなのに、この番組ではテロップが最小限に抑えられていました。このことには、聞き取りづらい患者さんの発話も、聞く側に、患者さんの言葉を真剣に受け止める心があれば、きっと聞こえるはず、という吉崎さんの大切なメッセージが込められていました。

吉崎さんの水俣病に対する態度は、患者さんに寄り添うというものでした。寄り添えば、きっと通じ合うことができると。
いやしかし、寄り添うというと、「庇護-する」側と「庇護-される」側という、一方的で硬直的な関係が成立してしまいます。ですから齟齬のないように言い換えれば、寄り添い合う関係と言えましょうか。

吉崎さんは、「弱者としての患者たち」を庇護する「弱者ではない私たち」という構図自体の中にある根本的な問題にアクセスしようとしており、私はそれに共感しました。
その構図を崩す象徴となるのが半永さんの「カメラ」です。

胎児性患者である半永さんは、発話ができません。ですから、意思表示のための手段である言葉を奪われています。
しかし、吉崎さんは半永さんの「カメラ」に、彼の明確な意思が宿ることに気づきました。
そして、「カメラ」を通して半永さんと「対話」することができる可能性を知りました。
半永さんの「カメラ」には、彼の日常が写っていました。そして「カメラ」によって切り取られた日常は、そのまま半永さんの頭の中、心の中を写すものでした。
吉崎さんは半永さんとの交流の中で、半永さんが「カメラ」でおさめた写真の展示会を開こうと思うようになります。先の九州スペシャル「写真の中の水俣~胎児性患者-6000枚の軌跡~」には、この展示会の話も取り上げられています。

この講演の中で私の脳裏に焼き付いた光景があります。
西南学院大学の舞台上で、多くの聴衆が吉崎さん・半永さんを見つめる中、「見られている」はずの半永さんが、カメラを構え、聴衆側に向かってシャッターを切りました。この場面は、一方通行になりがちな患者さんと私たちの関係性を、人とかかわることの根源的な意味から問い直します。それはまさに、聴衆の私たちが「見ている」つもりが「見られている」ことに気づかされ、そのことによって、一方向ではない双方向の交流の可能性が明らかになる瞬間でした。


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そして昨日は博多駅の水俣展に行きました。
初日ということもあり、多くの人が展示に見入っていました。

私自身、この歳になるまで、水俣病というものを深く考える機会を持たなかったため、数多くの展示に胸を締めつけられました。とても苦しい気持ちになりました。

また、2013年に福島原発事故が起こったために、水俣病と原発事故という一見異なる2つの事象のなかに、多くの共通項を見つけざるをえませんでした。
被害者一人ひとりよりも企業や産業を守ろうとする国の姿勢、周囲の差別意識によって被害者が公で発言しにくくなる状況、そして被害者どうしが分断してしまう状況、そして何より企業が市民に健康被害を与えているという現実、しかしその健康被害の立証が極めて困難な状況。これらすべてが2つの事象に共通しており、だからこそ、私たちはいま、水俣病に多く学ぶことがあると強く思いました。

会場の出口付近では、水俣病認定患者で、これまで水俣病の運動にかかわり積極的に発言してきた緒方正実さんの短い講話を聞きました。長年、水俣病にかかわってきた緒方さんが話していたのは、政府やチッソへの恨み節ではなく、水俣病を通して自分の心に問いかけてきたものでした。

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会期は5月27日(月)まで。


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by terakoyanet | 2013-05-16 08:54 | 連載(読み物) | Trackback | Comments(0)