乙武洋匡氏の「イタリアン入店拒否」騒動に見る不寛容の精神
2013年 05月 23日
二者で争いが起こったときに、片側の話だけを参照するのはご法度という考え方もあるけれど、私は乙武氏の文章に大きな嘘があるとは思えず、このような騒動になってしまったこと自体が、その事実の信憑性を保証しているように思えるので、全面的に乙武氏の話を信頼した上で話をしようと思う。(私だったらPS以下の部分は思っても書かないけれど。)
ネット上では乙武氏はかなり分が悪いようで、ヤフコメ等には非難の書き込みが延々と並ぶ。
非難と言っても、ヤフコメに日常的にある、韓国・中国に対する誹謗中傷・差別意識むき出しのコメント(いわゆるヘイトスピーチの類い・本当に嫌だ)に比べると、一見冷静なものが多い。きっと、「障害者を無下に差別してはいけない」という、いわゆる常識的な判断がそこにはある。
しかし、彼らのコメントを見て痛感するのは、まず、「バリアフリー」という考えに対する無理解だ。
この「無理解」についてわかりやすいのは、こちらのブログ「つぶやきかさこ」の今回の騒動に対するコメントの中にある。
ココロのバリアフリーという意味で、ぜひ乙武氏擁護派、店が100%悪い派に勘違いしてほしくないのは、ココロのバリアフリーとは、健常者が障害者に気を使うことだけではないということだ。
障害者も健常者に気を使う。健常者も障碍者に気を使う。互いに思いやる心。それが真のココロのバリアフリーだと思う。
乙武批判記事でも書いたけど、たった一言、乙武氏が銀座の雑居ビルで小さなレストランであることを想像し、店側を思いやり、「車椅子ですけど大丈夫ですか?」という「ココロのバリアフリー」が言えたなら、こんな大騒ぎにはならなかった。
でも店舗が悪い、乙武氏は何も悪くないと言っている人たちは、それが許されないようだ。
つまり、健常者が障害者に気を使うのであって、障害者が健常者に気を使う必要はないと考えているからだ。
それが間違っていると私は思う。そういう発想をするのは、障害者を下に見ているからだ。
障害者は何もできない。だから健常者が気を使ってしかるべきであり、健常者が保護するべきであるという。
それがいかに奢った考え方で、差別的考え方なのか理解していない。
健常者は常に強者で障害者は常に弱者ではないし、健常者だからとか障害者だからとか関係なく、社会の成員として、お互いがお互いのことを思いやり、住みやすくなるよう、双方でコミュニケーションすることが、
ココロのバリアフリーなんじゃないのか。
「バリアフリー」というのは、この文章の中にある、「ココロのバリアフリー」とやらの健常者=障害者の平等性をうたったものでは断じてない。
健常者と障害者との間には明らかに「格差」があることを認めた上で、健常者が障害者に配慮することで生まれるのが「バリアフリー」である。この「格差」があることを認めることは何ら「差別」ではない。横断歩道で車が歩行者に道を譲るのは、車と歩行者では明らかな「格差」があるからである。車が圧倒的に「強者」だからである。これを差別と断じる人はいない。
一見、健常者と障害者の「ココロ」の平等を謳っている「つぶやきかさこ」さんの文章は、健常者側の「寛容」がなければ障害者の「バリアフリー」は実現しないという最も単純な構図を見ようとしない。
「つぶやきかさこ」さんは「弱者を気取った強者=車椅子の王様・乙武氏の横暴極まれり」と題したエントリーにこうも書く。
車椅子ならなぜ事前に店に連絡しないのか?たったそれだけのことをすればいいだけの話。
大手チェーン店や高級ホテルのレストランならともかく、銀座の雑居ビルの小さな店で、店のホームページには、「ドトールの2Fになります。2階はエレベーターが止まりませんのでおきおつけくださいませ。」とも書いてある。
仮にホームページの情報を見落としたとしても、場所と店の規模を考えたら、予約の際に、「車椅子なんですけど大丈夫ですか?」というたったその一言がなぜ言えないのだろうか?
それとも日本の店はすべてバリアフリーになっていて、すべての店が車椅子対応できるとでも思っているのだろうか。
客は王様じゃない。店の対応を非難する前に、自分を守るためにも「車椅子ですけどいいですか?」
という気遣いや配慮がないのか。弱者を気取って弱者をいじめるとんでもないクレーマーじゃないか。
「ココロのバリアフリー」などと言っておきながら、ここには筆者の深刻な不寛容を見て取ることができる。乙武さんは店に行く前に、その店のホームページを確認する義務も、「車椅子ですけど」と確かめる義務もない。それをしない乙武さんを「弱者を気取った強者」「気遣いや配慮がない」と断じる姿勢は、世間のさまざまな「弱者」に対して向けられる冷たい視線と通底するおぞましいものを感じる。
昨年の河本準一の「生活保護費受給」騒動でもそう、「在日」の人々や障害者自立支援法に関する議論でもそう、「弱者を気取った強者」に対して、多くの人々が目くじらを立てて攻撃をする。
「弱者を気取った強者」は攻撃しやすい。普段は「弱者」は「常識的」に差別してはならない、攻撃してはならないものとされている。しかし、その「弱者」が「強者」に代わったとたん、それは攻撃してもよい対象に転ずる。「強者」を攻撃することは「常識的」で「正当性」のあることなのだ。
こうして「弱者」が「強者」として置き換えられたときに、攻撃をする人たちの本音、「ふだんは常識的な判断で差別していないけれど、本当は差別したいんだ」という本性がむき出しになる。千載一遇のチャンスだ!待ってました!とばかりに、本来の差別意識が噴出する現場は見るに堪えない。
私は「差別したいという本性」自体をここで云々するつもりはないけれど、その本性をむき出しにする人々の理性のなさに辟易する。
今回の乙武氏の騒動で噴出した不寛容の精神の中には、「人権」問題に関する深い問題が横たわっている。
このような「本来の差別意識」の噴出がどれだけ人の心を蹂躙するかということを考えると、胸が苦しくならざるをえない。
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