芥川龍之介「神秘主義」
2013年 07月 18日
神秘主義は文明のために衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。
古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。という意味は創世記を信じていたということである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。という意味はダーウィンの著書を信じているということである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変わりはない。その上古人は少なくとも創世記に目を曝らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダーウィンの著書も読まぬ癖に、恬然とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、―アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉こういう信念に安んじている。
これは進化論ばかりではない。地球は円いということさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一途に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至るまで、説明の出来ないことは事実である。
次にもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たという話は未だに時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚われて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているのか? 幽霊などを見るからである。こういう今人の論法は勿論所謂循環論法に過ぎない。
況や更にこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、―わたしは「何物か」という以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇とか魚とか蝋燭とか、象徴を用うるばかりである。たとえば我々の帽子でも好い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶるように、祖先の猿だったことを信じ、幽霊の実在しないことを信じ、地球の円いことを信じている。もし嘘と思う人は日本に於けるアインシュタイン博士、或いはその相対性原理の歓迎されたことを考えるが好い。あれは神秘主義の祭である。不可解なる荘厳の儀式である。何のために熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さえ知らない。
すると偉大なる神秘主義者はスウェデンボルグだのベーメだのではない。実は我々文明の民である。同時にまた我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或いは神意に似た好悪である。実際また西施や竜陽君の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。
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芥川が「神秘主義」という言葉で批判したことを現在の私たちは何度でも反芻して考えるべきではないでしょうか。
私たちの将来を左右する国政選挙も「我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或い神意に似た好悪である」とすれば、何とも不気味なものです。
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