教えること・教えられること

夢を見た。
私は生徒だった。
私は先輩のK君(本校の優秀な卒業生)からもらったノートを自分自身が書いたノートだと偽って先生(私の小学時代の恐い先生)に提出したことが何かの拍子でバレてしまい、授業中に一人だけ立たされて、先生から糾弾を受けている場面だった。
その宿題は「受験単語(私が制作した本校オリジナルの単語帳)を数回書き写す」というもので、私は先生の謗りに対し、「正直に全て話します。」と宣言したあと、「僕は受験単語の編集者なので、全て単語は覚えています。だから僕は時間が勿体ないと勝手な判断をし、K君のノートを提出してしまいました。」と半泣きで話す。

この夢の私は、完全に若い学生時代の私に戻っているのではなく、あくまで現在の私がそのままに学生になっていて、私が見る夢はなぜだかそういった設定のものが極めて多い。しかも怒られていることが極めて多い。これは学生時代に先生たちに怒られまくった記憶がそのまま影響していると思われる。


こういう夢を見たあとに感じるのは、長年「教える」ということを生業にしながらも、いまだに「教える」という立ち位置に奇妙な居心地の悪さを感じている自分自身の姿だ。

これは「教える」ことに自信がない、という話ではない。
「教える」ー「教えられる」の関係性においては、その瞬間において、あるヒエラルキーが成立する必要がある。「教えられる」側は、その一瞬だけ自らのエゴを捨て「教える」側を信頼し、全身全霊を預ける。
その瞬間に起こることは、人と人との間に生じる作用のなかでも、最も尊いもののひとつだと確信する。

しかし一方で、教師は一貫して「教える」側でいることはできないし、生徒もまた常に「教えられる」側であるはずはない。これは親子の関係のなかでも同じで、相互の「教える」「教えられる」の化学作用が反復されることで、相互の知恵や知識、その関係性自体の熟成が進んでいく。


「教える」側というヒエラルキー的立ち位置が保証されないのは、教師にとっても親にとってもしんどいことがあるけれど、常に「教える」「教えられる」の間で揺さぶられ続けることは、「教える」人間に必要な条件だと考えている。



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by terakoyanet | 2013-09-05 13:49 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)