うちの母のよかったところ
2013年 09月 20日
彼は事前にわざとしこんでるんじゃないかと思うくらい面白いトピックを用意して私の前に現れるのですが、昨日もまた完熟のネタを披露してくれました。きゅっと搾った濃縮感のある時間。卒業生というより、私の人生の友人として今後も機会あるごとに会って話したいなと思っています。
彼はいま勉学の傍ら学習塾で働いており、生徒や保護者と接する日々。
そんな彼の口から出てきた事柄のなかで印象的だったのが、彼自身の母について語ったときの言葉。
「親はすぐ自分の不安を打ち消すために子どもに「大丈夫?」とか声掛けするけど、うちはそういうのがなかったのがよかった。」
私は以前、河合隼雄氏と毛利子来氏の対談を引用し、次のように書きました。
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河合:「(子どもの木登りは、先生が)すぐに「もう下りなさい」とか、「それ危ない」とか言うから落ちるんですね(笑)。黙って見ていたら落ちないんだけれども。」
毛利:「そうそう。あれは大人が我慢できんのですね。大人が見ておってハラハラ、ドキドキに耐えられないものだから、「やめなさい」とか言って下ろさせちまうんですね。だからあれは子どものためと思ってるけど、自分の心配をとるため、自分のため。」
木登りをする子どもたち。それを見ている大人たち。
子どもたちは意気揚々と自分の好奇心を発揮して動き回っている。
しかし、それに我慢できない大人たち。大人は自分の不安を消去するために、子どもたちの活動を妨げる。その結果、子どもたちの足場を危うくする。
大人は本当に子どもより賢いのでしょうか。常に子ども以上の真理を握っているのでしょうか。
そうではないでしょう。大人は一人ひとりがかよわい人間であり、自分のそのときの感情や都合で動いてしまうものです。そのために、かわいいわが子の足場をあやうくすることが多々あるのです。
ですから、わたしたち大人は自分の愚かさを知ることが大切です。
そして、本当に子どものためになることは何か、ということに耳を澄ます必要があります。
とても難しいことです。木登りをしている子どもの前で我慢するのはとっても大変なことです。
しかし、その困難を知った上で子どもと接することが、きっと子どもの幸せにつながるだろうと感じます。
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「大丈夫?」と声をかけるときも、「勉強しなさい」と言うときも、「あなたのためを思って言っているのよ」と言うときも、いつでも親は「子どものことでこんなに感情的になっている私は何?」と自問することが大切です。
自己本位なのは決して恥ずべきことではありません。
ただし、自己本位であることに気づかずに、自己の欲求を他人(この場合は子ども)に押しつける行為は、他人(この場合は子ども)の尊厳を決定的に傷つけることがあるということを知ることで、私たちはそれを回避することができます。
これまでに述べたことは、子どもはなぜ親(特に母親)の言うことは聞かずに、第三者の言うことなら聞くのかという疑問に対する答えに直結します。
親は子どものためを思っているからこそ声をかける。これは大抵の場合、疑うべくもなく真実です。
しかし、愛情というのはこの世でもっとも自己本位な感情です。でも愛は盲目。私たちはそのことを忘れて相手にも同じものを求めやすい。親はどこかで私のこの気持ち、子に伝わるはず、伝わるべきだと思っている。
親が子どもに声を掛けるときには、そこに愛情があればあるほど自己本位になりやすいのです。
親が「あなたのため」と言えば言うほど、子はその声掛けを押し売りと感じ、反発するという悪循環。
一方で、第三者が「あなたのため」ということを伝えやすいのは、そこに(自己本位な)愛情がないから。
第三者は身軽に「私があなたの立場だったら」と、自分を相手の立場に置き換えて、いますべきことは何かということを相手に寄り添って提案することができる。
逆説的ですが、相手に寄り添うことは、愛情がありすぎるよりも、そうでないほうがやりやすいのです。
ほっといても子は育つというけれども、これは、子に愛情の押し売りをしない、ということの言い換えです。
何も「大丈夫?」「勉強しなさい」と声掛けをすること自体が悪いのではありません。
そのときに自身の心を点検しながら、声掛けが「過度」にならないように注意を払うことが、子どもにメッセージを伝えるために大切なことです。
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