塾は勉強をする場所でありさえすればよい。

眠れない病が発症しているので、もうひとつ投稿。



道徳とか行儀とか、そういう付加価値(にすらならないが)を売りにする塾は詐欺以外の何者でもない。



Twitterでちょっとキツめの言葉を吐いたのは私のある知人。




昨今、「道徳」や「行儀」を教えることを「売り」にする塾が存在する。
中には「行儀のよさ」や「親孝行」をポイント化して、ポイントに応じて商品をあげるという、かなり悪趣味な塾も存在する。

私は「道徳」や「行儀」を塾で教えることも、それを「売り」にすることも嫌だ。
ましてや教室での「行儀」や家庭での「親孝行」に対して塾がポイントを付与するなんて、狂っているとしか思えない。そんなことは許されないとさえ感じる。




私は「道徳」や「行儀」自体を否定するつもりはないが、「道徳」や「行儀」といった社会の「常識」、または「社会」そのものに対して疑問を持った子どもたちに対し、その疑問を頭ごなしに否定するような、知性のかけらもない対応をしたくない。「頭ごなしに常識を押しつける人間も必要」という考えもあるかもしれないが、私は私自身の性質上、その考えに与することはできない。


私はかつて日本の村落に存在した寺子屋的学び舎に「道徳」や「行儀」を学ぶ場としての意義があったことを否定しない。最近読んだ宮本常一の本には、村落にとって寺子屋的学び舎がどれだけ生き生きとした意義をもったものであったかということが活写されていて、非常に興味深い。

しかし現在「道徳」や「行儀」を教えると謳う塾にとって、それらを教えることは、単に教室の「付加価値」を高めるための戦略でしかない。そこで教えられる「道徳」や「行儀」は、教える講師にとっても、教えられる子どもにとっても、決して必然性という纏いを帯びることのない空疎なものである。




このことに関連して、私がずっと心にひっかかっていることがある。
2007年に本校がN新聞に取り上げられた記事の本校の紹介のなかに、次のような一文があった。

「塾を勉強するだけの場所とは考えず、精神面の指導にも力を入れているのが大きな特徴。」

私は、こんなこと言ってないし!!精神面の指導とかしてないし!!と思ったけれど、声を大にして言うまでもないかと考え直し、当時、新聞社に抗議するようなアクションはとらなかった。

しかし、6年以上経った今になってもやはりこの文言は気になる。

私は、塾は勉強をする場所でありさえすればよい、と考える。
しかし、勉強を教えている過程で、不意に生徒と心が行き交う機会が訪れることがあるのだ。
そして、結果的に、生徒に精神的な影響を与えることがある。しかしこれは「結果的に」なのである。
はじめから「精神面の指導をするぜ!」とか絶対に考えていない。

夏合宿などの行事も、生徒たちの精神面の指導をするという大義のもと行っているわけではない。
第一に学習力向上のためであり、第二に教室環境(生徒―生徒間、生徒―講師間)を整えるためであり、そして子どもたちの屈託のないあの笑顔!が最高だから行っている。

本校がずっと生徒を集め続けることができるのは、精神面の指導といった「付加価値」のためではなく、単に「勉強をする場所」として優れた部分があるということを、生徒と保護者が認めてくださった結果だと思っている。
「付加価値」で勝負しようとするなんて、塾の指導力の弱小さを披歴するだけ。あくまで勉強をする場所としての完成度を高めなければ。

塾は勉強する場所でありさえすればよく、心や精神は結果的にあとからついてくる(ことがある)。
私はこのスタンスで塾を続けていくことが肝要だと考えています。



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by terakoyanet | 2013-10-03 03:33 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)