ドラマ『リーガルハイ』とアイヒマン裁判について
2013年 12月 19日
ニーチェが『この人を見よ』の冒頭で「苦痛を申し立てずにはいられない」として槍玉にあげた「隣人愛」を、ドラマの中で果敢に実践する男こそ、NEXUS(=「絆」)代表のミスターウィンウィンこと羽生くんであり、その浅はかさを看過して彼を徹底的に叩きのめすのが古美門研介その人である。この意味で少なくとも『リーガルハイ2』は「隣人愛」(絆) vs「超人」の戦いであったと言っても過言ではない。
そして戦いの結果、最終話にて明らかになったのは、「隣人愛」を実践する「人たらし」羽生くんは「超人」古美門氏に「ルサンチマン」を抱いているだけでなく、古美門氏を、その髪の分け目さえもいとしく思えるほど「愛して」いるという驚愕の事実であった。
最終話では、これまでのモヤモヤが次々に解消され、これまで我慢した甲斐があったなと思わず膝を打った。古美門は、前話までに描かれた、羽生くんの好意と同情とにより解消されたいくつかの争いが、いまではさらに醜悪な顛末を迎えていることを匂わせる。このことはニーチェが「同情の手が一個の偉大なる運命、痛手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまで差し延べられると、時と場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえある」(『この人を見よ』)と述べた事象を思い出させる。これまで「勝ち負けではない」と言いつつ「みんなを幸せにする」という道義的な解決をすることで結果的に「勝ち」を見せつけていた羽生は、最終話で完全に勝者の座から引きずり下ろされ、代わって「超人」古美門の勝利が高らかに宣告された。(その後も「勝者」のように振る舞う羽生に対しては「あいつはバカなのか」と古美門はただ呆れるしかなかったが。)
そして、黛弁護士が古美門のもとに戻り、三木弁護士が古美門への怨念を取り戻し、本田ジェーンが陰キャラに戻る。天啓を受けたかのようにすべてが元サヤにおさまる明るさは「永劫回帰」さながらで痛快だった。
さて、現在、全国の小規模映画館で絶賛上映中の映画『ハンナ・アーレント』は、1961年のアイヒマン裁判を傍聴し、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に論文を掲載した結果、世界中のシオニストたちからバッシングを受けた当時のアーレント(ドイツ系ユダヤ人の女性哲学者)の単独者としての苦悩を描いたものである。
数百万人のユダヤ人を強制収容所に送る指揮をとったアイヒマンは、ユダヤ人への差別心と憎悪から大量の殺人を犯した、人間性のかけらもない極悪非道な輩だと誰もが思う中で、アーレントは、自身が収容所に送られた経験を持つユダヤ人であるのにかかわらず、アイヒマン裁判がいかに独善的で不公正なものであるかということ、そしてアイヒマン自身がいかに普通の人間であるかということを詳らかにする。
アーレントは、アイヒマンが犯した悪の凡庸さと陳腐さを描くことで、私たちが外部に「悪人」を措定したその瞬間から、悪の本性が隠されることを指摘する。アイヒマン裁判ははじめからアイヒマン被告という「悪人」が独り立ちしており、その「悪人」ゆえの「悪業」が裁かれたという意味で、悪の本質についての考察がなされていないことをアーレントは深く憂えている。
リーガルハイ2の第9話にはこのシリーズの真骨頂とも言うべき場面がある。
殺人容疑で起訴された安藤貴和。彼女が殺人現場から出る場面を見たという証人が多数いるという検察に関し、「安藤貴和に見えたに違いない。みんながそれを望んでいるから。人は見たいように見る。聞きたいように聞き、信じたいように信じるんです。」「検察は、証拠によってではなく民意によって起訴したんです。」「愚かな国民の愚かな期待にも応えなければならないんですか。」と矢継ぎ早に古美門は問いかける。
「民意」という名のもとに、安藤貴和が「悪女」としてレッテルを貼られたがゆえに、それに沿った証言が得られ、さらにその「悪女」ゆえの「悪業」は「死刑に処すに値する」ことであるして世論が高まる。古美門はそのような民意を「愚かで醜く卑劣」だと言う。
自らの愚かさ、醜さ、卑劣さを隠したいがために、他者に「悪人」という主体を押し付け、そのことで安心する私たち。最終話で「我がままで勝手で狡くて汚くて醜い底辺のゴミ虫」である私たちだが「醜さを愛する」―つまり自らの「醜さ」を受け入れることで「悪」を他人になすりつけないーことだけが唯一の解決法であることを示した展開はあっぱれの面白さであった。
ただひとつ、心にひっかかる問題が残る。
クルトの問題である。
アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』を執筆したせいで、家族同然の愛すべき友人クルトから背を向けられてしまう。映画『ハンナ・アーレント』のなかで、最も悲しいシーンのひとつである。
いかにアーレントの単独者としての姿勢に畏敬を払う者であっても、危篤状態にかかわらず渾身の力でアーレントに背を向けるクルトを責めることができることができる人がいるであろうか。
悪の本性のようなものを仮に語ったとして、巨大な「悪」から大きな損害を受けた当事者たちにとって、それがいったい何の意味があるのか、ということである。
当事者たちにとって「悪」には「悪人」のような主体はないなんてことが、果たして耐えられることなのだろうか。そのことを考えずにはいられませんでした。
※文中の『この人を見よ』の和訳は、新潮文庫『この人を見よ』(西尾幹二訳)より。
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