明治日本の産業革命遺産の世界遺産登録と囚人墓地
2015年 07月 13日
私自身、九州に残る産業遺産は、九州内で最も見るべきもののひとつと考えており、私自身多くの遺産を訪れてきました。結果、本ブログでは、今回世界遺産に登録された各遺産について、何度か取り上げています。
また、本校では過去数度にわたり、夏のサマー合宿で産業遺産訪問を行ってきました。
今回、世界遺産に登録された遺産にしぼると以下のような記事があります。
九州・山口の産業遺産・近代化遺産①万田坑
九州・山口の産業遺産・近代化遺産②八幡製鉄所 東田第一高炉跡
九州・山口の産業遺産・近代化遺産③長崎の軍艦島
サマー合宿では大牟田市の近代産業遺産を巡ります。(宮原坑など)
長崎に遠足へ(軍艦島に上陸)
今回の世界遺産登録にあたり、韓国側が横槍を入れてきた際に、「また言いがかりだ」とその主張に怒りをぶつけた日本の方々が多数いらっしゃいました。世界遺産登録を心待ちにしていた方たちのイライラ感は当然想像はつくものの、一方で日本政府の対応に問題があったことも否めません。
一番問題なのは、当初は「九州・山口の近代化産業遺産群」という呼称だった遺産群を2013年に「明治日本の産業革命遺産」というものに変更し、そして遺産対象を「1850年代から1910年の間に限定」した点です。1910年は韓国併合の年。ほとんどの遺産が1910年以降にその生産・稼動のピークを迎えるのにかかわらず、1910年までに限定した背景には、韓国や国際社会の批判を逸らす目的があったと考えられても仕方がありません。ですから、この遺産登録までの経緯については、もっと検証される必要があると思うのです。
そもそも今回の日本政府の方針のような「近代化の称揚」だけで世界遺産の価値が高まるでしょうか。近代化とともに何が起こったかを専門家ではない私たちが検証できる場をつくることこそが、世界遺産登録の意義なのではないでしょうか。各地にはそのことをきちんと理解した上で地道な活動(語り)をなさっている方々がいらっしゃいます。例えば軍艦島クルーズの際にも、ガイドさんによっては朝鮮の方々の徴用についてのお話がきちんとなされています。
三池炭坑とその歴史を取り扱った名著として、中川雅子『見知らぬわが町 1995 真夏の廃坑』があります。
当時高校生!だった中川さんが自分が住む町にある炭坑とその背景に広がるものを追ったこの本には、炭坑のそれまであまり語られなかった歴史が具さ(つぶさ)に記されています。
その本でも取り上げられている囚人墓地(大牟田市一ノ浦町)は、世界遺産になったことを機に大牟田・荒尾を訪れたいと思っている方に、ぜひとも足を運んでもらいたい場所です。この場所には炭坑で囚人労働をしていた人たち(朝鮮人を含む)が葬られています。




四号、九号、廿七号・・・ そこには、番号だけが書かれた墓標が並びます。
この墓標が私たちに教えてくれるのは、個人の尊厳がないがしろにされた時代が私たちのすぐそばにあったということ、しかしその時代においても番号しかもたない人間を大切に弔う人たちがいたということです。
『見知らぬわが町』には与論島出身の労働者たちの劣悪な労働環境についての描写もありますが、この時代、特に戦時中は、人権保障なんてものは存在しないに等しかった。だから、日本人も与論の人たちも朝鮮の人たちも、いまでは考えられない劣悪な環境の中の労働を強いられたし、強制的な徴用も誰彼かまわず行われたのです。先日、菅官房長官が「国民徴用令に基づいて行われた朝鮮半島出身者の徴用は、強制労働には当たらない」という談話を発表しましたが、そのような屁理屈の詭弁は、当時起こった事実を考えるにあたり、寸毫の貢献もなさないでしょう。
もしかすると、今、私のいる場所が囚人墓地なのかもしれない。私たちはそ知らぬ顔で過去に何もなかったように暮らしているが、実は死体の上で生活しているのかもしれない。
私はそのことをいつも心に留めて生きていこうと思う。
『見知らぬわが町 1995 真夏の廃坑』より
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