障害者アートについて
2015年 10月 01日
とらきつねで、ひまわりパーク六本松さんのアート部門、PEECEPLANTさんの作品の取り扱いを始めました。
私は今回の販売開始にあたり、障害者アートを取り扱うということについて、いくつかのことを考えましたので、それについて記したいと思います。
私は9年前にこちらのブログに「障害者とは何か」という文章を書いたことがあります。私がそこで話したことは、「障害者なのに●●ができてすごい」という視点に対する強い違和感です。
私は障害者アートについても、障害者なのにこんな絵が描けてすごい、そんな視点があってはつまらないと思います。同様に、それが反転した、障害があるからこそ個性のある、感性の強い作品が描けるという視点もあまり好きにはなれません。
実際に障害のある方々と直接かかわりながら、アート活動への支援をしている方々は、それがあくまで「福祉」行為の一環であり、それが時に「アート」と矛盾するものであることに自覚的な方が多いと感じます。心と身体を使って、アート活動をする人たちと関わっているのですから。
障害者アートについて、或る錯誤に陥りやすいのは、私たちのような売り手であったり、それを買い求める人であるのかもしれません。「障害者」がつくるものはやっぱりイイネと、或るフィルターを通して、その作品を見てしまう。そして「障害者」の作る作品が分かる「私」自身が、さも「アート」の活動を担っているような錯覚を覚えてしまう。そういったことは多分に起こりえると思うのです。
フィルターがかかること自体は、或る意味仕方のないことです。それをしゃにむに否定しても何も始まらない。しかしそれを自覚しないことは、私は障害者の作品にも、その他の多くの「アート」たちにも失礼だと思うのです。「アート」自体が権威主義的な側面を内包していることは否めないとしても、まるでその側面だけを抽出したかのような露骨な消費のされ方はイヤなのです。やはり、アートはアートとして、そこにいてほしいのです。
ですから、私が障害者の方々の作品を扱うにあたってひとつ決めたルールは、好きなものを選ばせてもらう、ということです。それは、私自身が「目利き」の人間かどうかは横に置いておいて、一度、私自身が「好き」という視点(これもひとつのフィルターなのかもしれませんが)で選ぶという作業を通して、一度、障害者アートという枠から拾い出すことが必要だと感じたからです。障害者アートという障害者の支援の形に対し敬意を抱くこと、同時に、そこから意図せずに零れ落ちる強度を見ること。このふたつは矛盾していますが、矛盾をそのまま抱え込んだままに、それらに自覚的な活動をする人たちの躍動をこれからも見てみたいと心から願っています。
とらきつねに並ぶ作品たちを、ぜひ見に来て下さい。いま、工房まるの恵谷さんともお話しをしているところですから、さらにおもしろいものが並ぶことになると思います。
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