アヤラ博物館と「歴史」の話
2016年 01月 28日
天皇皇后が昨年のパラオに続いてフィリピンを訪問中とのこと。
このニュースを見て思い出したのがマニラのアヤラ博物館"AYALA MUSEUM"。
フィリピンの歴史を深く学ぶことができる博物館で、併設されているカフェも素敵です。
ここの博物館は、館内撮影禁止のため、内部の写真はありませんが、特に、スペインとアメリカの植民地支配、そして太平洋戦争における日本の侵攻、さらに現代史と続いていく迫真のジオラマは圧巻でした。これを見るだけでも、この博物館には行く価値があります。ジオラマでは、日本では取り上げられることの少ない「バターン死の行進」などについても詳しく触れられていました。
「バターン死の行進」については、「南京大虐殺/南京事件」などと同じく、とてつもない悲劇だったと語られることが多い一方で、一部の日本人は、そんな事実はなかった、と主張しています。
歴史上のあったなかった論争は、あらゆる職場で起こっている言った言わなかったの内輪喧嘩のごとく、その事実の有無について、不毛とも言えるやり取りが延々と続くのでしょう。そして結果的にどちらも譲らずに遺恨だけが残る。(または先日の日韓協議のように、「人」を無視して強引に政治的な決着が図られる。)でもそんなことはできれば終わりにしたいところです。
学校で教えられる「歴史」は、揺るぎのない事実(=史実)のような装いで子どもたちに語られます。
しかし実は、それこそが躓きの始まりと言えます。
私はここで、「教科書が教えない歴史」があるんだよ、といった、別の新たな事実について話したいわけではありません。そうではなくて、学校で教えるべきは、「歴史」とはそもそも何なのか、ということを検証することの必要性だと言いたいのです。
ベネデット・クローチェの「すべての歴史は現代史である。」という言葉をわざわざ引用するまでもなく、歴史というのは、いかに明白で公正に見える資料が目の前にあろうとも、それは現代の私たちからの眼差し(解釈)なしには成立しません。だから、私たちは歴史の教科書を構成する「眼差し」を知ることで、歴史そのものというよりは、それを構成する要素、つまり現代の私たちについて深く知ることができるのです。
先日、ある生徒が「歴史はもう物語ができあがっちゃっているから面白くない」と発言しました。私は、この子鋭いな、と感心せざるをえませんでした。できあがっちゃっている物語というのは、ある人々を熱狂させ、ある人々を震え上がらせるのです。
「歴史」が事実の擦り付け合いの道具にならないように、「歴史とは何か」という最も基本的なことだけでも、学校で教えるべきです。そうすれば、歴史が政治の力学から一旦解除された状態で、子どもたちはもっと自由に「歴史」を学ぶことができるはずです。
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