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「安楽」を追い求めること

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、他人への寛容が失われているし、自分の心を見つめることも、自分自身を大切にすることもできないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




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by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)