寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2018年 07月 02日

関係性、それ自体がわたしなんだ。


今朝、起きてすぐにTwitterを眺めていたら、ふとこのツイートが飛び込んできて、そうそう、と思いました。私たちは、誰かのことを「悪い人」「良い人」と考えがちだし、自分のことを「私にはこういう悪いところがある」と反省した結果、「私はダメな人間だ」という結論に陥りがちですが、実のところは「悪い人」「良い人」という実体は存在していなくて、ただ単に、周囲との環境や関係性からこの人は「こういうふうになった」と、そう考えたほうが、誰も憎まなくて済むし、自分自身を含む諸問題を、ひとつの「現象」としてクリアに考えられるのではないかな、私はそう思います。

現在、介護の世界で注目を浴びている「ユマニチュード」というケアの技法があります。(たびたびトークイベント等で紹介していますが、『「ユマニチュード」という革命』というとても良い本があります。)ユマニチュードの技法は、特に認知症高齢者のケアの現場で大きな成果を上げているのですが、ユマニチュードの面白いところは、私たちは認知症の人とは意思疎通が困難である、という常識的な判断を取っぱらい、認知症の人たちの目を見て声をかけ、触れて、私はあなたを見ていますよ、というメッセージを、ケアを通して伝え続けることで、その人たちが自らの尊厳を取り戻し、生き生きとした心が再び呼び起こされるところにあります。
ユマニチュードは、私たちができるのはケアであってキュア(=治療・治癒)ではない、ということを明言します。キュアという言葉の裏には、「キュアできる主体がある」という前提が潜んでいます。そこでは、認知症は治癒すべき症状であり、認知症患者はその症状を宿した主体であると考えられているのです。
しかし、ユマニチュードにおいては、その前提こそが誤りのもとだと考えます。認知症の人たちに接近することで私たちが気づくのは、認知症の人たちも、私たちも、それぞれの世界を生きている、という当たり前の事実です。でも、その世界がうまく関係性を結べないとき、私たちは、認知症の人たちの側に「問題がある」と考えます。認知症の人たちに「問題がある」からこそ、私たちは彼らとのコミュニケーションを十分に為し得ないと考えるのです。しかし本当は、これは認知症の人たちの側に「問題がある」のではなくて、単に私たちと認知症の人たちの間の「関係性」の問題に過ぎないのです。もしかしたら、私たちのほうこそ、「関係性」の障害を患っているのかもしれません。ですから、ユマニチュードでは、その「関係性」自体を取り戻すことに主眼を置くのです。私と相手との関係性の綻びに気づき、それを修復しようと心を砕くだけで、相手の「問題」が消える瞬間に、私たちは立ち会うことができます。


坂口恭平さんの10日くらい前のツイート。坂口さんは、認知症のおばあちゃんではなく、単にいま目の前にいるおばあちゃんと向き合うことで、結果としておばあちゃんといっしょに昭和23年にトリップしました。そうしたら、意志の疎通がかみ合わないはずのおばあちゃんが号泣したんです。おばあちゃん自体には問題なんてないよ、坂口さんはそのことを知っていて、記憶喫茶をやることになったんだと思います。優しくて温かいエピソード。
坂口恭平さんの小説『家の中で迷子』が一昨日発売になりました。)


子育てにおいても、子どもに「問題がある」、子どものこういうところが「悪い」と考えることがあるでしょう。でも、「あなたのここが悪いのよ」と考えるのではなくて、私とあなたの関係性そのものに綻びがあるのだ、そう考えることで、もつれたひもがほどけることもあるでしょう。なぜなら、私たちは関係性そのものでできていて、私たちには本体はなく、単に現象のみがあるからです。

この考え方は、きっとあらゆる人と人との間の関係を考える上で大切なものです。

家族でも職場でもそうですが、何かがうまくいかないときに責任を誰か一人(や少数)に負わせようとする傾向があります。しかしうまくいかないのは、いかにその人だけのせいに見える場合でもそうではなくて、その場を構成する一人ひとりが何らかの原因をつくっています。自分が正しいと思っている人たちが、一人を断罪しようとして犯人捜しをすること自体が、うまくいかない元凶だと考えることもできるでしょう。家族というのは、構成員一人ひとりというよりは、その関係性そのものに主体が存します。だから、家族に問題があるとしても、それを誰か一人だけのせいにすることはできません。-『親子の手帖

人間は「人の間」と書きますが、人と人との間の関係性、それによって生じた現象、それがわたしであり、あなたである。そう考えることで、もう少し、肩の荷を下ろして生きていきたいと思います。


・・・

伊藤亜紗さんの『どもる体』は、「ときとして、思いから切断されたままに動く体」を抱えて生きる「吃音」を通して、意識や意志をもつ人間の身体の本源的な謎にせまるとても興味深い本です。すっと心になじむ読み易い文体なので、どなたにもおすすめです。最終章では、「本当の自分」という「私」の輪郭を明確に確定しようとする人と、ゆらぎのある私自体を「私」として認める人が対照的に登場していて、これは私が先に述べた「私」を「本体のあるもの」として捉えるか、「現象」として捉えるかの対比とパラレルになっています。


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by terakoyanet | 2018-07-02 12:48 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
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