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「役に立つ」とは何か。

昨日、附属福岡小の齋藤先生から「12歳からの哲学」と題した授業にお招きをいただき、子どもたちと話をしてきたのですが(来年も続きます。とても面白かった!子どもたちすごい!授業中の子どもたちの反応もよかったです)、事前アンケートで子どもたちから「哲学は役に立つのか」「哲学をやって利益はあるのか」という質問が届いていたので、それについてお話しをしました。(他にも、プラトン、デカルト、パスカル、スピノザ、ラカンを援用してたくさんのことをお話ししましたが。)

このことについて、以下に少し書きたいと思います。(昨日の説明を少し噛み砕いて話しますから、子どもたちに話した通りではありませんが。)


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まず、「哲学は役に立つのか?」と考える前に、私たちが考えるべきことは、「役に立つ」ということについて、私たちはほんとうにわかっているのか?認識できているのか?という問題です。

老子や荘子の思想から導き出された有名なことわざに「無用の用」というものがあります。これは、「役に立たないように見えるものであっても、かえって役に立っている場合がある」という意味です。例えば、サッカーにおいて、一見、地味なはたらきしかしていないように見える選手を交代させると、とたんにチーム全体のバランスが崩れてしまうということがあります。このようなことは、あらゆるグループや組織において、たびたび起こり得ることです。

勉強や仕事においても、一見無駄に見えることが役に立つという例は枚挙に暇(いとま)がありません。
私はこれまで700人もの受験生たちを直接指導してきましたが、中には、何事もできるかぎり効率よくやろうとする子がいます。効率よくやること自体は間違いでないのですが、ある子は、自分が役に立ちそうだと思うことしかやろうとしません。大切なこと、役に立つことに絞って、労力を節約しようとするあまりに、結局のところ、大切なことを取りこぼしてしまうのです。そういう子は、いつまでも成績が伸びません。

その子に欠けているのはきっと、自分が「役に立つ」ことを完全には認識できないという謙虚さです。私たちが自分の手で掴める「役に立つ」ことなんて、本当に役に立っていることのせいぜい1/10程度なのではないでしょうか。私たちが1割程度しか「役に立つ」を掴んでいないとすれば、「役に立つ」に拘る(こだわる)あまり、残り9割の「役に立つ」を逃してしまうのは畢竟(ひっきょう)当然のことです。

だから、無用の用を知り、無駄を厭わない人は強い
そして、自分が「役に立つ」ことを完全には認識できない、このことを身にしみて知るために「哲学」はきっと役に立ちます。




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by terakoyanet | 2018-12-20 12:29 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)