フィクションという覚悟について

私は、真の表現者というのは「フィクション」に対する覚悟を持っていると思っていて、その「フィクション」に対する覚悟が現われている、最もわかりやすい例だと私が思っているのが、星野源が病床で書いた曲『地獄でなぜ悪い』の歌詞です。



無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちたときから 出口はないんだ

いつも窓の外の 憧れを眺めて
希望に似た花が 女のように笑うさまに 手を伸ばした

嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

<中略>

作り物で悪いか 目の前を染めて広がる
動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ 明日を掴んで立つ

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

嘘で出来た世界が 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ 同じ地獄で待つ

星野源『地獄でなぜ悪い』




私はこの歌詞を聞いたときに、星野源という人は、この時点で「星野源」をフィクションそのもののとして見立てて活動していくという覚悟を決めてしまったのだなと思ったのです。彼が植木等を敬愛しているというのはそういうことだったのか。これは怖ろしいことだな、すごいことだなと。

この考えの根底には、「作り物だ世界は」という根本的な洞察があるんです。

私たちはとかく「世界の真実」について考えがちだし、「私たちが生きている現実」について考えがちなのですが、そうではなくて彼は「私たちはすでに作り物である世界に投げ出されてしまって」いて、それははじめから「真実」や「現実」などの拠り所などはない「楽しい地獄」なのだというところから始めている。

私はこういう出立地を持つ表現者を信頼します。



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by terakoyanet | 2019-01-04 11:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)