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コロンボにて

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昨年行った、スリランカのコロンボ。
とても深い思い出が残る場所になりました。
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スリランカといえば仏教国であると日本の中高生は学ぶわけで、高校の地理や世界史では、仏教徒のシンハラ人と南インド系のタミル人とが対立した歴史なども学ぶわけですが、実際にスリランカに来てみると、シンハラ人とタミル人といっても、例えばタミルにはヒンドゥー以外にイスラム教のタミル人もたくさんいることや、北部と中部のタミル人はそもそもスリランカに渡ってきた時期や動機が異なること、さらに、海岸近くにはキリスト教(カトリック)の人たちが(主に漁民として)多数住んでいて、厚い信仰が守られていることなどが次々と分かり、その民族と宗教の多様性にとても驚かされました。

日本と同じ島国ながら、これほどに多様な人たちが隣人として共生していかねばならないという現実は、日本の学校の社会や道徳の授業で標語のように語られる「共生社会」「多文化社会」という空疎な理想郷としての社会とは全く異なるリアルさで、スリランカの人たちの生を逞しくしています。日本の人たちはさかんに「英語が上手にならないー」と嘆いていますが、シンガポールやフィリピン、インドやスリランカといった同じアジアの国々の人たちが日本人の多くより英語を話せるのは、苛烈な共生社会、多文化社会を生き抜いてきたという現実があったからです。そういう社会背景を抜きにして英語の教育問題を語ったところで、言語を考える上での本質的な部分が抜け落ちているし、そんなファッションのための英語なんて、本来私たちの人生に必要はないのです。日本にだって本当は苛烈な現実があることが、たとえば磯部涼さんの『ルポ川崎』(サイゾー)や上間陽子さんの『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』などを読めば分かるわけですが、しかしそれらは圧倒的少数派として黙殺され、見えないことにされていて、そんな単一民族幻想にいまだに浸っている島文化というよりシマ文化の日本では、多民族社会のリアリティというのはなかなか見えてきません。だから、私は若い人たちは一度日本というシマを離れて多民族という現実を目のあたりにすることを熱くお勧めしたいのです。
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コロンボ13に位置する聖アントニオ教会(St. Anthony's Shrine)はかつては海岸沿いに建っていた、コロンボを代表する最も古い歴史を持つカトリック教会のひとつ。教会の入り口にある聖アントニオの像の下には彼の出身地のパドヴァ(イタリア)の大聖堂と同様に、なんと彼の舌の欠片が聖遺物としてガラスの箱の中に大切に保管され、多くの巡礼者を集めています。

インドやスリランカに行くと、「極東」の日本よりもずっと深く、ずっと身近に、ペルシアやアラブ、ヨーロッパと繋がっているという海の道、陸の道を実感することが多々あり、そのたびに心が揺さぶられます。

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1Fの聖堂で少しお祈りをした後に、2Fの聖パトリックの資料館をひと通り見て帰ろうとすると、「食べていきなさい」と資料館の階段の前に座っている女性に声をかけられました。私はそのときお腹がへっているわけではなかったので、「結構です」と丁寧に断るも、「食べていきなさい。無料だから。」と2度、3度言われ、いただくのが正しい作法かもしれない(そういう発想しか浮かばないのが残念)と思い、資料館の隣の部屋で、もらったカレーを頬張りました。
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スプーンなんかないので、現地の人たちと並んで手で食べました。
決して上等なカレーではないのですが、手で食べるカレーは、いま食べているという実感に溢れていて、日ごろいかに食べるという行為をないがしろにしているかということに気づかされました。道具(この場合、箸やスプーン)を介するというのは、おそらく知らず知らずのうちに、ある思考の型をつくるのだ、道具を使うことで、忘却の彼方に追いやられた思考や感覚がきっと他にもたくさんあるのだ、そんなことを考えました。

教会の2Fにカレーを食べに来ている人たちの中に、今日食べるものに困っている人たちが混じっていることは、容易にうかがい知ることができました。日本でも、子ども食堂とか、炊き出しとか、食のためのさまざまな取り組みがあるけれど、かつての日本にはきっとこうやって、宗教や町のコミュニティがもっと自然に困窮者を助けるしくみがあったのかもしれないということを想像しました。きっと個人や小さなグループががんばるよりも、全国各地の寺や教会がその役割を果たしたほうが持続性があるし、宗教には本来的にそういう役割が含まれているはず、そう思いました。

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この日、私はスリランカのある有名な「社長」に会いました。彼の家系はスリランカの政治の大物が大勢いて、東京で10以上の飲食店を経営しています。

彼のかつての遊び仲間には安室奈美恵、フジモン、馬場ちゃん(ロバート)らがいて、現在はネゴンボに美味しい本格日本料理を味わうことができるホテルを建設中です。
「スリランカでは医療も教育も無料、生きるだけなら衣食住にもほとんどお金が必要ないから、働く意欲がない人が多い。仕事で嫌なことをさせたらまず次の日から来ない。クレームをつけたら、謝罪とフォローどころか、二度と連絡がつかなくなり、途中で仕事が投げ出されてしまう。時間、約束、契約の概念がない。僕はいい車に乗りたいけど、周りには、自転車からさえ降りたがっている人がいる。」日本とスリランカの両方で人を雇用する彼は、ため息混じりにそう言いました。

一度日本の契約様式を知ってしまうと、時間も約束も守らず、自転車からさえ降りようとするスリランカの人たちは、ストレスが溜まる存在だそうです。
でも、「道具」と同じように、私たちが時間や契約を守ることを自明としたときに失われたものがあり、きっとそれは振り返られることはないのでしょう。


日本人は始まりの時間は守っても、終わりの時間は守らない。日本の作法や契約様式は、倫理的な装いのままに裏切る。だから、裏切りを洗練化させることに血まなこになっている国から来た私には、スリランカの自転車を降りたがる人たちに対して、深い憧憬を抱かずにはいられなかったのです。


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by terakoyanet | 2019-01-07 14:54 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)