『みぎわに立って』田尻久子著(里山社)のこと

眠たい。明日は朝が早い。
いま起きてこんなことをしていることを見られたら、さっきまでテレビを見ながらうつらうつらしていた私のことを知っている妻から驚かれそうだ。

それでも、何となく、今夜寝る前に書かないと、書けなくなるような気がする。
そう思っていまパソコンの前に座った。
田尻久子さんの『みぎわに立って』について、少し書きたいと思ったのだ。

この本は、失われたものへの哀切に溢れている。
失われてなくなってしまったもの、それでも確かにいま私の一部になっているものへの愛惜で溢れていて、心がいくつあっても足りないほどだ。

別れは、小さくとも大きくとも、どれもないがしろにはできない。またすぐ会える人と握手を交わすような気持ちでいればいいのかもしれない。 ― 本文 p167「握手」より-

久子さんが描く別れは、じめじめとはしていない。果実のように瑞々しくて、水のようにさらさらとしている。
このさらさらはきっと人を助ける。さらさらってほんとうにありがたいんだよ。私はそれを泣きながらじめじめと訴えることならいくらでもできる。

久子さんはさまざまな別れ(分かれ)のみぎわに立っている。それはときには生と死のみぎわであり、異郷と故郷のみぎわであり、過去と現在のみぎわである。今日も久子さんは、橙書店のカウンターに立って、ある人や猫の死を悼み、そして熊本に帰ってきた人におかえりと声をかける。

想像力のなさは、知らぬうちに人に刃を向けることがある。だから、わが身に置き換えて考えてみようとするが、人の気持ちなどそう簡単にわかるものではない。想像力だけではいつでも足りない。 ―本文p67「それぞれの視界」より-

みぎわに立つということは、必ずしも誰かの問題を解決したり、人の世界を調和させたりすることではない。いつも足りないことをかみしめながら、ただ、そこにいるだけである。

それでも、カウンターに立っている久子さんを見て、今日も自らの存在の輪郭を確かめ、平衡を取り戻す人がいる。その手ごたえによって生存していける人がいる。

みぎわに立つということは、そこに意義のようなものを見つけようとすると、大切なものがとたんに雲散霧消してしまうようなはかなさをもっている。

みぎわに立つことは、意味の手前で佇むことであり、風や光が気持ちいいのと同じことであり、それは私たちと世界のあわい(間)を満たす何かなのだろう。それにしても、この本の豊田直子さんの装画は、みぎわ(汀・渚・水際)の美しさがそのまま溢れ出たようで、本当に美しいですね。

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とらきつねで好評取扱中のアルテリの発行人でもある田尻久子さんの『みぎわに立って』は、現在、とらきつねで販売しています。版元の里山社から届いた「みぎわ新聞」(鹿子裕文さんのコメントがいい)、そして、田尻久子さんの既刊『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)とともに展開中です。



・・・

田尻久子さんがカウンターに立つ「橙書店」は、村上春樹がエッセイで書いた看板猫のしらたまくんでも知られる熊本の書店。

昨年は高校生たちと橙書店を訪れ、本人たちが選んだ本をその場でプレゼントしました。
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高校生たち、この日に選んだ本、もう読んだでしょうか。まだ読んでない人もいるんじゃないかな。
でも、本はいつでもいつまでもみんなを待っているから、大丈夫だよ。


by terakoyanet | 2019-05-16 02:39 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)
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