とらきつね、親子の手帖とたぷの里
2019年 07月 05日
突然のメール失礼いたします。
唐人町に住んで、三児の父親をしております。
「親子の手帖」の愛読者です。
昨週末子どもを連れて「とらきつね」を訪問しました。
上の子が店内にあったお相撲さんの贅肉に頭を巻き込まれた少年のTシャツを気に入って、
その夜、家のホワイトボードに記憶をよびおこしながら書き込み面白がっていました。
下の子がその絵をまた気に入り、笑いが止まらないのです。
「親子の手帖」を読んでいるとき、中学受験を控えた同じ親としても、またかつて子どもだった自分の学生時代の記憶に苛まれて心が締め付けられるような熱いひとときを過ごしました。
鳥羽さんの文章は、そこに居合わせているような情景やまた彼らの情動が直に伝わってくるような丁寧な描写で、一気に読み干してしまいました。
自己や他者の感情を知覚し、またご自分の感情をも具にコントロールする才覚の方なのだろうと察することができました。
俗に言うEQ領域を活性化させるためには本物やいいもの、また「何だこれは?」というようなわけのわからないものを見ることだと聞きますが、その部分に引かれてか私もかねてから気になっていた「とらきつね」に足を運ぶ機会となったわけです。
月曜日の夕方、仕事から帰ると、下の子が散歩に行きたいというので近くを廻ろうと連れ出しました。
その道すがら、「あそこの角に行きたい」と言い出しました。とらきつねです。
おそらく今日は休みだろうと記憶していたのですが遠くはない、ひとまず行ってみようと方向転換です。
子どもはいつもはよくしゃべり冗談を言って笑わせるようなユーモアな童子ですが、この時は何も言わず黙々と前を見て歩みを強めます。
何に突き動かされているのでしょう。
やはりお休みでした。
「帰ろっかー」
「うん。でもほらあれ、見えるねー」
と、お相撲さんのTシャツを指さしてニヤニヤ私の方を見上げます。
あ、そうか。
これか。
お店の事を〝不思議なもの″と例えられていましたね。
・・・・学習塾というのは勉強を教えさえすればいいし、社会性や道徳について語りだすような塾はかえって信用ならないとさえ思っています。ではなぜこんな余計なことをしているのかと言えば、生徒が通う教室のすぐそばにとりあえず不思議なものが転がっていればいい。そうすれば、匂いに引き寄せられて、必要な人が必要なものと出会うだろうと思い、店やイベントを運営するようになりました。
「勉強」という大きな鉄壁に小さなのぞき穴があって、風の通る抜け道がある、もしくは別の抜け道がある。
その無鉄砲のような潜在的な配慮なるものがあるだけで安心感、選択肢が拡がる。
何だかわからないけど巨大なプレッシャーから逃げ出せるような、
そう感じて嬉しくなりました。
いつも空いてないけど何か或るぞ…
その匂いに引き寄せられて、私はカレーの壺をいただいて帰り、童子は何かを感じ取ったのでしょう。
一夜明けて再び何があるか、そこに立ち戻るという実行力を見せました。
子どもたちはこの店を不思議がり少し怖がっていましたが、同時に面白がり期待を込めていた情動に、また鳥羽さんの言葉が後から追いついてきて、私の記憶にちょうどはまったものですから私も何か感じるものがあったのでしょう。
とらきつねの訪問後、読み残っていた図書館で借りた「親子の手帖」のもう半分を読み終え、何か教育というようなものを超えた次の幸福論に出会った様な気がしてついつ興奮し、支離滅裂な長文になってしましました。すみません。
灯台の灯りが霧の中を挿していくように、子どもたちが迷った時の希望という目じるしに。
これからも応援してます。
ご縁があればこれからの幸せについてのお話など聞きに参ろうと思いますのでイベント情報などあれば教えてください。ありがとうございました。
本文中の「お相撲さんの贅肉に頭を巻き込まれた少年のTシャツ」は、たぷの里のTシャツのことですね。
