今年最後のお話し会

今年もいろいろなところでお話しをさせてもらいましたが、今日はおそらく(私個人としては)今年最後になるお話し会が早良区で行われました。(他の方との対談はまだありますが。)

お話し会の会場は満席。ズボンのチャックが開きっぱなしだったこと以外は全てがよい時間でした。
途中自分を離れて喋ってるようで、面白く感じました。
日ごろから原稿を書いていると、つらつらと言葉が出てくるようになるという効果がありますね。

途中、参加者の方に『親子の手帖』の朗読をしてもらったのですが、たくさんの参加者の方々が泣いていて、この本すごいなと人ごとのように驚きました。あたたかな会場をつくってくださった植山さん、岡田さん、来てくださった皆さまありがとうございました。いただいたお菓子、ケーキ、コーヒーもとても美味しかったです。

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朗読してもらった箇所の文章、3か所のうち2つを以下にご紹介します。


かつて子育てというものが、村のコミュニティーや大家族との関わりの中で行われていた時代に比べ、共同体との関係が希薄になった私たちの時代の子育ては、親一人ひとりに孤独で苦しい戦いが強いられています。
子を守ることは、同時に子を抑圧することになる。でも、抑圧しすぎると、子は育たない。だからといって、抑圧しなければ、私はあなたを育てられない。親はそうやって子の責任を私独りで引き受けようとするために、延々と逡巡を繰り返し、それに付随する苦しみの連鎖によって、親はさらにその思考から子どもをいっときも手放すことができなくなります。
子どもに自然に育てるということは、親がその思考から解き放たれ、子どもに対する力の行使を断念することなのに、それはなんと難しいことなのでしょうか。

それでも、子どもはいずれ親を離れ、自立していくのです。親にとって、子の自立は、喜びであると同時に、自分の身を捥がれるような苦痛を伴うものです。
あの日、私から生まれた、私自身と同一視せざるをえないような脆弱さをまとっていたあなたが、私の逡巡とは別の場所で、私と別の人格を持ち、私から離れていく。それを認めることの苦しさ、そして、その途方もない心細さ。これは多くの母親が共有する感情でしょう。

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思春期の子どもにとって、親という存在はあまりに重すぎて、なかなか簡単に自分の内面を吐露できるような相手ではありません。それなのに、親の方は子どものことをわかりたい、わかっていると思いたいものです。そのせいで、子どものことを、つい自分と同一視してみたり、あるいは自分の所有物のように考えてしまって怒り散らしたりしがちです。
でも、実のところは、子どものことなんて、親にわかるはずがありません。だって、よくよく考えてみると、自分のことさえも何を考えているのかわからない私たちが、自分と似ているとはいえ、自分ではない別の個体である子どもの心がわかるわけがないのです。
親子の関係は、親が子どものことを「わかる」「わかりたい」「わかるはず」と思うあまりにこじれます。親にとって子のことが「わからない」のは、底知れず不安で苦しいことです。それで、親は子どもにいろいろな干渉をすることで、その不安を解消しようとします。その親の働きこそが親子がこじれる原因です。
だから、親の方がもう少し、私は子どものことがわからない、だから不安なんだ、私が子どもに抱いている不安というのは、私が子どものことがわからないことから生じる私自身の不安なんだ、そういうふうにクリアに理解できれば、子どもに対する距離感が変わって、自分も子どもも肩の荷を下ろすことができるのではないでしょうか。
では、わからない私たちにできることは何かと言えば、ただ子どもに近づき、そばにいることです。そうやって、ただ子どものそばにいるというのは、親にとっては落ち着かない不安なことです。でもその「そばにいる」ことだけが、親が子にできる全てであり、脆くてはかない、でも確かな幸せなんだ、そう気づいたとき、私たちはそのありがたさに涙するかもしれません。





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by terakoyanet | 2019-10-30 19:15 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)