坂口恭平とオノラリア

今日はいよいよ坂口恭平さん、末井昭さんのトークイベント当日です。

以下は、坂口恭平さんの「いのっちの電話」は、神から「召命」を受けた中世の人たちと同じ働き方なんです、という話。

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一昨日に高校生たちと読んだ村上陽一郎さんの『科学者とは何か』は、医師や法曹家(弁護士)がお金をもらって仕事をする意味について、その根っこを再考することができる面白い文章だった。


西洋中世における医師や法曹家の仕事は、木こりやパン焼き、肉屋などの一般的な職業とは、本質的に異なるものだったそうだ。それは、医師や法曹家の仕事が単に「知的」な職業だからというからではなく、彼らだけが神の「召命」によってその仕事をしていたからである。


何故なら、そうした仕事は、この世で「苦しんでいる人々」に、救いの手、助けの手を差し伸べるものだからである。身体の病いに苦しみ、精神の不安に苦しみ、そして社会的な正義を犯されて苦しんでいる人々に対して、神は、特別に才能を与え、自分の意図を実現する手先になってくれるべき人々を用意し、それらの人々の手を借りて、助けと慰め、正しさと補いとを、与えようとした。したがって、神は、彼らに常に呼びかけているのである。「苦しんでいる人々のために、(私があなたに与えた)その才能を使いませんか?」と。
『科学者とは何か』村上陽一郎


西洋中世における医師や法曹家の仕事は、聖職者たちと同様に、神の「召命」に従って人を救うことであり、神に対する責任を負って働くことを是としていた。一方で、現在の医師や法曹家(弁護士など)は単なる世俗的なエリートの職業となった。だが、苦しんでいる人間を助けようとする点は今も昔も変わらないので、現在の医師や法曹家たちは、神ではなく、患者や依頼人に対して直接に信義的、道義的責任を負うようになる。


現在、私たちは医師や弁護士に規定の金額を支払うことで契約関係を結び、その対価として彼らから治療やサービスを受ける。(だからこそ現在の医師や弁護士には規定の金を払ってくれた契約者に対して責任が生じるのだ。)しかしこの方法は、神の召命に基づいて仕事をしていた時代の医師や法曹家には馴染まない。だから、翻って西洋中世のころの医師らの報酬について見てみると、そこには「オノラリア」という習慣があった。


医師が患家を訪れる。医師は背中に口の開いた袋を背負っている。診療・治療が終わって、「ではお大事に」と患者もしくはその家族に背を向ける。袋もそちらを向く。患家の人は、そこへいくばくかのお金を入れる。次々と患家を周っている間に、医師には、誰が幾ら入れてくれたか判らなくなってしまう。
『科学者とは何か』村上陽一郎


「オノラリア」は医師に対する「報酬」として、神との誓約に基づいてなされる仕事への尊敬と名誉の承認という意味合いを帯びていた。だから、その金額は払う側の医師に任せられるという特殊な性格を持っており、だから例えば「袋に手を入れて、払うふりをして払わない」という今では倫理的に正しくないと思われる行為さえも、それが尊敬と名誉の承認という振る舞いでさえあれば、それは何の問題もないのである。


この話を読んで真っ先に思い出したのが、今日とらきつねにゲストでやってくる坂口恭平さんの「いのっちの電話」である。彼は8年もの間、希死念慮のある人たちからの電話を無償で受け続けている。彼は自分の仕事が、お金という対価に対するサービスを履行するという形になじまないことを知っていて(それどころか彼は「金を使うと不幸になる」とか「基本的に金稼ぎしてるやつは全員怪しむようにねw」とか発言している)自分がどれだけの仕事をしたかということを、実際にいくらもらったかということと関係なく自分の帳簿につけている。これはまさに西洋中世の「オノラリア」の精神と同じであり、きっと当時の医師たちは、袋に思ったほどお金が入っていなかったとしても、それを不服と思うことはなかったのではないか。


坂口さんへの長年の謎として「死にたい人たちと話していて自分が擦り減ってしまわないのか、そしてそれは割に合う仕事なのか」というものがあったのだが、この問いは「オノラリア」によって説明が可能である。

彼が希死念慮のある何千人もの人たちと関わって擦り減らないのは、彼が自分は特別な仕事をしているという自覚を持っていて、だから戦略的に相談者と直接の契約を結ばないという形を選び取っているからだ。(直感的な感覚をそのまま戦略に変えることができるのが彼の確かな賢さだと思う。)じゃあ、彼が誰と契約を結んでいるかと言えば、それは「神」ではないだろうが「今はフリードリヒ・ニーチェにむかっているんだ」(『まとまらない人』)と言っているくらいだから、神とは全く異なる、それでいて神の似姿をした何かなのだろう。

「割に合う仕事なのか」という問いについては、彼にとってお金は報酬にならず、自らの召命を果たしているという自覚がある限りは、周囲の僅かな「仕事への尊敬と名誉の承認」があればそれが報酬なのだから、割に合わないということはない、という回答になると思う。(だから、私たちは「オノラリア」としての賛辞と承認を彼にもっともっと与えたほうがいいと思う。報酬が足りないとき、坂口さんは自分で自分をほめているので、それで事足りている可能性もあるが。)


ということで、「坂口恭平とオノラリア」のお話は以上です。今日のトークが楽しみです。



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by terakoyanet | 2019-12-11 15:12 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)