『おやときどきこども』ご紹介 第1章

6月末に刊行される『おやときどきこども』ですが、本日、Amazonでも予約販売が始まりました
版元のナナロク社はこちら『親子の手帖』共々よろしくお願いします。


今日は、本の第1章をご紹介します。


はじめに

1 新しい子どもたち
大人と子どもの「現実」/それぞれのストーリー/スマホと嘘つき/いじめの関係をほぐす/入試と父の暴力/コミュ障と恋と物語り/彼女はそのままに世界を見ていた/出会い方/孤独という避難所

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今回の本は、子どもたちの生身の声、そして声にならない声をできるだけ詰め込みました。
最初の章「新しい子どもたち」には文字通りさまざまな子どもが登場します。

「お母さんは私のことを「現実」から逃げてるって言うけど、お母さんが言う現実はもうないの。ていうか、初めから現実はひとつじゃないの。大人たちが「将来の夢」を子どもに言わせるときに頭の中にあるのは、大人にとってのひとつの現実でしかないじゃない。でも、私から見たらそれはカビが生えてるの。そんなのダサくて択んでいられないの。子どもに将来を思い描かせても、それは絶望を見せてるだけだよ。大人はデフォルトで絶望のくせに、子どもに希望を持てとかほんとダサいし。私はそもそも絶望してないから。私の言ってること、わからないでしょ。」

子どもたちは頭がかたい親に対してときに痛烈な言葉を投げかけます。この本の大きなテーマのひとつは「対話」ですが、その対話の多くが、ヒリヒリとした痛みを伴うものです。

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先生にお世話になっていた中学のころ、うちの母は、子ども三人をひとりで引き受けていたんです。父は雑誌の編集者でもともと家を空けがちだったんですが、僕が中学に上がってすぐに、東京に単身で住むようになって。下には小五の妹と、小三の弟がいて、三人をすべて私がちゃんと育てなければならないと、ひとりで引き受けすぎてしまったのだと思います。一度引き受けてしまうと、いくら苦しくても手放せなくなる現象、あれ、何か名前をつけたいですよね。母もきっと苦しかったんだろうということが、いまならわかります。

母親から人格の否定ばかりされ続けた礼太郎くんは、なぜあの当時母親があんなに自分に辛く当たったのかを、全身を震わせながらなんとか理解しようとします。

僕は少し前まで、母に傷つけられたということ自体、認められませんでした。僕には、母に対してなんか強烈な罪悪感みたいなものがあって、僕が悪いのに、傷ついてしまう自分はなんてダメな人間なんだと、自分を否定する気持ちでいっぱいでした。大学に入って東京にひとりで住むようになって、やっと僕は母からひどい扱いを受けていたんだな、と認める気持ちになってきました。あの罪悪感もひとつの刷り込みだったんだというのが見えてきて、ああ、かわいそうだったんだな、とあのころの自分を慰めたい気持ちにもなりました。

礼太郎くんは、自分が悪いダメな子どもだから叱られるのだと思って自己否定の中で生きていたのですが、ようやく必ずしも自分が悪いのではなく、むしろ母親からひどい扱いを受けていたんだとようやく自分の言葉にすることができるようになります。

いや、どうかな……。僕はいま、先生の前だからこんな理路整然としたことを言っているだけかもしれません。家に帰ったら、また母を憎む気持ちがふつふつと沸き起こるかもしれません。逆に母のことを求めてしまうような気持ちが噴出するかもしれません。こうやって話しているうちに、僕はあのころと何も変わっていない気さえしてきます……。いまも、親に対して悪いという気持ちが僕の一番根っこの部分に突き刺さっているのを感じます。親のせいにしているだけで、全部単に自分の問題じゃないかという気もしてきます。

でも礼太郎くんは、そうを話しているうちに、いや・・・!?と考えを再び揺るがせてしまいます。やっぱり僕が単に悪いだけじゃないか、、そうやってこれまで彼がずっとずっと繰り返してきた循環の中に戻されてしまう場面は、とても苦しくて悲しいです。

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1章では、いじめや家庭内暴力についてのトピックも扱っています。

このとき、健太くんを「いじめっ子」として扱わないのと同様に、Kくんを「いじめられっ子」として扱わないことが肝心です。Kくんのことを心配していることは率直に伝えた上で、周囲からはこう見えたという客観性を敢えて作り出すことで、彼に「いじめられっ子」というレッテルを貼ることを注意深く避け、彼が自分を否定的に規定せずに済むように留意するのです。子どもを「いじめっ子」「いじめられっ子」として扱うことは、それを子どもに内在化させてしまいます。いったんそれが子どもの心に沈着してしまうと、そこから抜けられなくなり、身動きが取れなくなってしまうものです。大人から「いじめっ子」、「いじめられっ子」として見られている私という立ち位置から逃れられなくなり、そのせいで自然な心の発露が妨げられます。その結果、正直に自分の言葉で状況を説明することが難しくなるのです。

いじめ行為が起こったときに、周りの大人がどう対処すればよいか、ハンナ・アーレントの哲学や最新の精神介護の観点も援用しながら、できるだけ具体的に記述しました。

お父さまはこれまで、健太くんに熱意を持って真剣に接してこられたのだと思います。でも、それは健太くんの「いま」を見ずに、むしろお父さま自身の「ちゃんとした親でありたい」という自己防衛のためになされたがんばりだったのではないでしょうか。

息子に暴力を振るってしまった真面目なお父さんとの対話には、弱い一人の人間が子どもを育てることの困難が凝縮されてます。

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章の中盤には大学で「サイコパス」というアダナを付けられてしまった男の子が登場します。彼は「空気が読めない」「コミュ障」だとサークルの仲間の中で揶揄される自分自身の問題と、障害がノーマルの中に囲い込まれてゆく(つまり差別意識といった根本的な課題に触れることなく美しくコーティングされてゆく)社会の問題とに共通点を見出します。

いま発達障害の勉強をしてて僕が思うのは、こういう障害というのは作られていくんだなということです。いままではちょっと変わった人みたいな感じで終わってた人たちが、わざわざ呼び名を与えられて、カテゴリー化されることで、やさしく理解されたみたいな体を社会で作って、それであらゆる人たちを囲い込もうとしているんだなと。僕はそういうのは恐いしイヤだと思ったんです。

さらに、コミュニケーションが前提とする共感の共同体と言葉の問題にも触れています。

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私はずっと、生きていることに苦しさを感じていました。
私はきっと、生まれながらに消えてしまいたかったのです。
恐怖に怯えながら、私は誰かを探し求めていました。
私に存在を与えてくれる人を待っていました。

章の後半には、幼い時から心理的虐待を受け続けてきたマリアさんという女の子が登場します。
彼女がどうやって自らの存在の手ごたえと言葉を取り戻してゆくかについて、この本でもいちばん力を入れて書いた箇所です。関係がない人にとっては何でもない話だと思いますが、マリアさんを「知っている」人にとっては特別な話になっていると思います。この話がグッときた方がいたら、「マリアさんからの手紙」を読んだ直後に、米津玄師の「アイネクライネ」のMVを見てみてください。この歌の意味がほどけて分かると思います。この歌は、実は被虐児たちの再生の歌なのです。

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うん、きっと寂しいんだと思います。でも、その寂しさに対して私は割と冷静ですよ。私は孤独を自分で守りたいと思っているんです。

章のいちばん最後で、高1の靖子さんと寂しさと孤独について語り合います。その対話にはどこかぎこちなさがあるのですが、そういう不自然な間(ま)や沈黙、思うように出てこない言葉も含めて対話なんだということを実感する場面です。ぎこちないままに個と個とが瞬間的にでも手を結ぶことができたなら、私たちはこれからも前を向いて生きていくことができます。

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2章以降はまた後日ご紹介します。




帯文は、東浩紀さん、阿南智史さん(というか、この場なので書きますが卒業生の阿南くん=never young beach)、そしてとらきつねとの縁も深い寺尾紗穂さんの3名が文を寄せてくださいました。(下の再生▶をクリックしていただいたら見ることができます。)

おやときどきこども
著者 鳥羽和久
ブックデザイン 鈴木千佳子
DTP 小林正人(OICHOC)
校正 牟田都子
編集 川口恵子
ナナロク社
ISBN-10: 4904292944
ISBN-13: 978-4904292945


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by terakoyanet | 2020-05-27 17:34 | お知らせ | Trackback | Comments(0)