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「大人になる」ということ。

先日、小6の国語の授業でも取り上げた茂木健一郎さんの欲望する脳には、アルベルト・アインシュタインの次の言葉が引用されています。

「ある人の価値は、何よりも、その人が自分自身から解放されているかということによって決まる」

茂木さんはこの言葉を引用したあと、「自分自身に囚われてしまうというのは、人間の哀しい性(さが)」であり「避けられない傾向」であるとしながらも、次のように言います。

「私」という主語に囚われることは、この世界の真実に目を閉ざすことを意味する。科学とは、「私」に拘泥せず、この世界の様々なものの「相手の立場」に立って考える営みである。そのことは、「私」というブラックボックスから解放されることで初めて可能になる。

ニュートンも「私」の見方から離れ「リンゴの気持ち」になって「どうして私は下に落ちなければならないのか」と想像してみたからこそ、万有引力の法則を発見したのだと茂木さんは言います。「私」という囚われから解放されることで、世界が開けて見えるようになるのです。

でも、私たちは「私」という囚われから自らを解放するなんてことが、本当に可能なのでしょうか。茂木さんは次のように言います。

もちろん、いくら他者のことを想像するといっても、最終的に思考を進めているのは「私」の主観であることには変わりない。私たちは、決して「自分自身」から完全に解放されることはないのだ。

アインシュタインが「自分自身から解放される」ことの価値を強調した時、脳裏にあったのは自我の完全な消滅や、「私」という立場の特別性自体の否定ではなかったろう。その意中にあったのは、「私」が世界の中で特別な意味を持ち続けることは認めた上で、世界の中の様々な他者と行き交うために、思想的な工夫を凝らすということであったはずだ。太字は引用者)


ニュートンがリンゴの立場になって考えてみたのも、「自分自身から解放されるための思想的な工夫の一つ」なんです。
他者と出会い、他者に関心を持ち、他者への思いやりの心を芽生えさせ、そして他者の心に気づいて他者をもう一度発見する。その過程で私たちは「自分自身から解放されるための思想的な工夫」をひとつ身につけていくのでしょう。そして、それが「大人になる」ことの意味のような気がします。




先日から、拙著『親子の手帖』に写真家の植本一子さんが寄せてくださった帯文、

私たちは子どもたちのために
もう一度「大人」になる必要がある


について改めて考えていました。「大人になる」っていったいどういうことだろうかと。
だから、小学生と茂木さんの『欲望する脳』を読みながら、「大人になる」というのは、そういうことじゃないかと考えたのです。



哲学者の東浩紀さん(今月発売の『おやときどきこども』に帯文をいただきました)の最近の「大人」に関するツイートには、「大人」になりきれない大人への批判が綴られています。大人になりきれない大人、子どものふりをする大人というのは、「私」という主語への回帰をすることで世界に対して目を閉ざしていて、しかもそれを自分の中で正当化してしまっています。そんな大人ばかりだから世界は一層悪くなっていく。そのことに対して東さんは警鐘を鳴らしていると感じます。

私は今月出す『おやときどきこども』で「大人が子どもと出会い直す」ことについて書きました。これは「自分自身から解放されるための思想的な工夫」を私なりに一つ示したものです。寺尾紗穂さんがまさに帯に書いてくださったとおり、大人たちが、いかに子供の言葉を奪い、自らも言葉を手放してしまったかについてできるだけ詳らかに書いたつもりです。

しかし、これは大人に対して子どもへの回帰を呼びかけるものでは決してありません。子ども性のようなものの再獲得を求めるものでもありません。大人になりきれない大人は、自分の中の「子ども」がいまだに成仏していなくて、だからこそいつまでも「子ども」のままです。だから、そんな人たちがこの本でいつの間にか奪われてしまった自らの中の「子どもの声」をもう一度確認して手当てすることで、「大人になる」ということを真剣に考えるための本として企図しました。

私たちは子どもたちのために
もう一度「大人」になる必要がある

植本一子さんが寄せてくださったこの言葉が、今この混乱した世の中でいっそう切実さを増して響いています。


「大人になる」ということ。_d0116009_00103283.jpg
いま寝る前に読んでいる3冊。どれもめちゃくちゃ読み応えありです。


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by terakoyanet | 2020-06-11 00:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)