『山と獣と肉と皮』(繁延あづさ著)を読む

著者が家族で大切に育ててきた鶏を長男とふたりで絞める場面がある。
「……この作業、ふたりだから気持ちが救われるんだね」
そんな気持ちを中学生の息子と共有する時間というのは、毎日中学生と絡む生活を送っている私でも、ちょっと想像がつかない類いのものだ。

スーパーの食肉コーナーでトレーに並べられた食肉たちには死臭がない。防腐剤は「動物の命のことなど忘れてしまいなさい」というマジナイのように、絶命した動物の肉体を商品としての肉塊に変えてしまう。
こうして私たちは死という「穢れ」を見ずに済ませることで、日々を平穏に生きるという術を身に着けている。

「穢れ」は日常と相いれない。私たちは「穢れ」を見ないふりをして日々過ごしているので、息子と鶏を絞め殺す母親というのはちょっと猟奇的に見えるかもしれないし、実際に彼女は平均的な人たちよりちょっと猟奇的なのだと思う。
というより、「ケ=日常」の反対が「ハレ=非日常」ではなくて「ケガレ=偶然性に侵される日常」なのだとどこかで気づいてしまった人間が目指すものは、ハレではなくて「穢れ」という猟奇的なものにならざるをえないのではないか。それが現時点での私のひとつの結論である。

死んで「かわいそう」な動物が「おいしそう」な肉に変わる境界はどこにあるの? 動物の皮はどこから革になるの? 彼女が抱くこれらの疑問は、彼女の息子が切った爪を見ながら発した疑問「ぼくはどこまでがぼくなの?」と相通じている。
そう、彼女はすっかり子供の目で命の不思議を改めて捉えようとしている。(これが、彼女がいま子供を産み育てていることと関係しているのかどうかについては、直接彼女に尋ねてみたいと思っている。)
動物が殺され、解体され、料理され、鞣される(なめされる)過程を見つめながら、著者は自分をセンサーにして「穢れ」の領分に分け入ってゆく。敢えて「穢れ」を問わないのはきっと「大人」の振る舞いなのだ。彼女はそれをかなぐり捨てて「穢れ」の謎にどんどん深入りしていく。それが痛快でたまらない。

この本を通して考えられることの射程は広い。猟師のおじさんと山や獣との密なる対話は、言葉の意味にばかりに捉われがちな私たちが、非言語コミュニケーションの豊かさに触れることで自らの言葉を捉え直す契機になるかもしれない。
食べる・食べられることを通してあらゆるいのちが循環しているという事実は、すなわち私たちが生きていく以上、他のいのちに対する「責任」を追わざるを得ないということを教えてくれる。(その「実例」として、この本には水俣病の話が出てくる。)

自分自身をセンサーにした、いのちの不思議をめぐる旅。
なんて刺激的で面白いんだと(この本を読むことで)いっときでも彼女の旅の同伴者になれた幸せを噛みしめながらこの文章を書きました。

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繁延あづさ『山と獣と肉と皮』×鳥羽和久『おやときどきこども』 刊行記念トークはいよいよ12月23日(水)に開催です。残り数席のみあります。ご著書『山と獣と肉と皮』のこと、長崎での生活のことなど、根掘り葉掘り聞きたいと思います。繁延さんは中3の長男、中1の次男、6歳の娘の母でもあり、『おやときどきこども』の話の際には、おのずと親と子の話、家族の話にもなると思います。楽しみです。
by terakoyanet | 2020-12-19 03:36 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)