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石川直樹『地上に星座をつくる』のこと

旅がほんとうに好きな人たちは、こんな状況の中でもそれぞれに旅をしている。というより、旅と共に生きていて、そこから逃れることができない。

この本は石川直樹さんが2012年から2019年までに「新潮」に連載した旅の話を1冊にまとめたものだ。私も旅に若干狂っている人間なので、おのずといっしょに旅に出るような気持ちで、ページをめくると同時に、登場する地名を探してはグーグルマップ上に次々とピンを立ててしまうし、石川さんがたどったと思われるルートをオンラインでなぞってみたりして、文字通り彼の旅の追体験をすることになる。もう、ワクワクが止まらなくなる。

石川さんの紀行文の面白いところは、8000m峰を何度も登るような一般の人にはなかなかできない旅をしている人なのに、武勇伝らしいものを感じさせないところだ。プロフェッショナルな感じはそこそこに、お腹は痛くなるし、咳は止まらなくなるし、そういう人間の弱さをそのまま抱えてヒマラヤの高峰に挑んでゆく。(実際には石川さんは途轍もなく体力と技術がある人だそうだ。今日話した東京の編集者Tさんも言っていた。)

この本の魅力は、文字通り緊張感のある命懸けの場面にこそ不意に浮かび上がる人間らしさだ。標高8400m地点での日の出待ちという極限状態のときに「タバコ吸っていい?」と断りを入れてきたシェルパのパサン君のエピソードはその最たるもののひとつで、その人間らしい優しさとたくましさが同時に感じられて思わず胸が熱くなる。

ヒマラヤへの遠征を多く描いているこの本が、異世界すぎて日本国内でくすぶっているライトな旅好き(と自分で思っている)の人たちの心を捉えないかといえばそうではない。石川さんの旅というのは、そのほとんどが完成していない。真冬に能登の超有名な観光地のなんでもない砂浜をプチ冒険して危うくカヤックで死にそうになるし、カナダではまるで海外に初めて来た観光客のような慣れない失敗をするし、ベトナムには肝心のフィルムカメラを忘れて出かけてしまう。ズッコケ三人組をひとりでやっているようなところがあるのだ。そして、あるときはネパールの最奥の国境まで行って国境の向こうのチベットを夢想する。初めから越えられないと分かっている国境まで行ってその奥を見ようとする石川さんは、旅をはじめから完成したものとしてとらえてないし、むしろ自分の頭の想像力でいくらでも旅ができることを知っている人なのだと思う。

私は先日『バウルを探して〈完全版〉』(川内有緒・中川彰/三輪舎)のことを書いたときに、東浩紀さんの『ゲンロン0 観光客の哲学』のことに触れながら次のように話した。

哲学者の東浩紀は著書『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017)において、「観光」(もしくは「観光客」)という言葉を新たな哲学的概念として立ち上げた。「他者」という使い古された左翼的で政治的、かつ文学的ロマンティズムを携えた言葉の代わりに、東は「観光」という即物的で世俗的な軽さを持つ言葉を敢えて使うことを提唱した。そこに描かれていたのは、人間や社会を改良するというような必然性に基づいて「他者」と出会う「まじめ」な旅ではなく、むしろ無意味な不必要性(=偶然性)が図らずも照射するものに感応して、結果的に「現実の二次創作」を生み出してしまう「まじめ」でも「ふまじめ」でもない「観光客」の姿であった。私は、この「観光客」という概念を、「旅(トラベル)は本物に触れるからいいが、観光(ツーリズム)は本物に触れないからだめだ」という既存の固定観念をひっくり返すものとして受け止めたが、『バウルを探して』の同行者3人は、どちらかと言うと「観光客」を地で行くような旅人たちなのだ。

これに準ずれば、石川さんはまさに旅人(トラベラー)を地で行く人でありながら、「観光客」的視点を持った人だと言えると思う。石川さんの写真は偶然の結果生み出された「現実の二次創作」であり、だからこそいまのリアルがあり、どうしようもなく魅力的なのだ。


とは言いつつも、ヒマラヤの名だたる高峰の登攀にチャレンジする石川さんには「観光客」にはない「死の香り」が漂う。

人智を超えたヒマラヤも含めて、もはやぼくの驚き=興味がそこ(=振り切れた架空の世界、または強烈な現実)にしかないとしたら、完全に中毒症状である。中毒は、その先に死の香りが漂うために「中毒」と名付けられる。ちょっとやばいな、と思う。でも、やめられない。帰国から2週間が経った今も、ぼくは次の旅のことを考え続けている。(『地上に星座をつくる』より)


いきいきとした生の現実への渇望は、結果的に死を呼び寄せる。K2に登る直前の春に桜を見る石川さんの目の中には、死に対する覚悟というか諦観のようなものが感じられて、読む私の方はどうしようもなく落ち着かなくなってしまう。

でも、いま私たちは「自粛を強く要請する」なんてヘンテコな日本語が堂々とまかりとおるクソみたいな世の中に生きている。だから、気づかないうちにいつのまにか死んだように生きている、そうならないためにも、周りの空気を読むのでもGPSで示されたとおりに動いてみるのでもなく、「自分の身体で世界を知ろうともがき続けていく」そのことを忘れたくないと切に思う。石川さんのような「特別な人」が「地上に星座をつくる」のではなくて、私たち一人ひとりが「地上に星座をつくる」ことができることを教えてくれる本だ。

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  • 著者: 石川直樹
  • 出版社 : 新潮社 (2020/11/26)
  • 発売日 : 2020/11/26


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by terakoyanet | 2021-01-13 17:19 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)