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坂口恭平『躁鬱大学』(新潮社)のこと

本日、坂口恭平さんの『躁鬱大学』(新潮社)の刊行イベントが、とらきつねにて定員6割の少人数で開催されました。

ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました!


坂口恭平さん、「意味がない無意味」(千葉雅也さん)をそのまま地で行くような人で、トークの最中に、意味と無意味の間を自由に往還しちゃうんですね。こんなトーク、ほんとうになかなかないと思うんです。トークって意味を語るものだと思われているし、意味を求めてきた観客に応えることが使命とされがちですが、坂口さんのトークはそういう楔が取れてしまっているから聞く方もほんとうに気持ちがよくて、今日だけの時間だったと感じることができるんです。



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今日は昨日(2021年4月28日)発売の、坂口恭平さん『躁鬱大学』の感想を以下に挙げます。

かなり、面白いところを書き抜いてしまったので、どうせいまから読むのが決まっている方は、読んだ後に見てください。
『躁鬱大学』というタイトルに興味を持った方は、以下を読んでいただけたらこの本にすごく興味を持ってもらえるかもしれないと思います。書き抜きだけでもすごく面白いですから。


・・・・・


僕は真剣に、躁鬱病で自殺する人をゼロにしようと今、試みています。つまり、躁鬱病というものを「躁鬱人の特徴」という言葉に切り替えようとしています。


『躁鬱大学』は、坂口恭平という躁鬱病を患った人が、躁鬱人として自分を乗りこなし、躁鬱超人(なんだかスーパーサイヤ人みたいだ)に至る道のりとその具体的実践を記した本です。


怒りっぽい、不正をただすスーパーヒーローになって猪突猛進してしまう、大胆かつ繊細、その中心には生き物に対する優しさがある、空気を読むことだけに長けている、「好き」か「嫌い」で生きている、記憶を創造する、リアルとフィクションをごちゃごちゃにする……。


カンダバシさんと坂口さんが描く「躁鬱人」の特徴は、ほんとうにリアリティにあふれていて、わかりみが深すぎて、あごの下を触られた猫みたいに気持ちよくなってしまいます。(個人の感想です。)


躁鬱人自身が雄弁に自分のことを喋るのを聞く機会ってそうそうないので、ここに描かれていることは、同じ躁鬱人にとっては、ほんまその通りやわ!の連続なんですね。同じ気質を持つ人間としては、坂口さん、どうやってこんなことを可能にしたんやろうか、と不思議に思うわけですが。



そうじゃなくてあなたが何年か生き延びてるってことはですね、どんな人にも一長一短あるんです。だから、すべてダメだということはないんです。大げさなんですよ。


人から少し否定的なことを言われるだけで、「全否定された」と思うんです。ムキになっているんじゃなくて、本当に「全否定された、死ねということか!?」と思うんですね。でも、周りの人は、その人に何が起こっているかわからないから、誰も「大げさですよ」とは言ってくれない。どうか、この本を読むことでそういう人に安心してほしいし、周りにそういう人がいたら、「大げさですよ」と冷静に伝えてあげてほしいです。そのせいで死ぬ人もいますから。


僕は休みの日は特に設けていません。休むと調子を崩すので、休みの日をつくらないようにしました。躁鬱人は休みの日に暇を持て余していると、むしろ体調が悪くなります。


とにかく躁鬱人は暇だと鬱になります。退屈すると鬱になります。


躁鬱人にとって重要なのは「なにをやるか」ではありません。そうではなく「どれだけ多彩か」ってことだけです。


こんなの、そうでない人には理解できないかもしれませんが、ほんとうにそうなんです。休みだからとダラダラしてると、とたんに調子が悪くなるんですね。ダラダラした日の夕方とか最悪です。私の場合、休みの日こそ動かないとダメで、1日でも休んでしまうとほんとうに寝込んでしまう事態になります。


こういうことって、いままで誰も説明してくれませんでした。休んでるのになんでだろう?おかしいなぁと思っていました。全然、自己分析ができていないんですよね。



僕は娘と息子が死ぬのが怖いという状態になったときは深呼吸の方法を教えてます。横になって心臓を落ちつかせて、吸うのを極力減らして、ゆっくり吐く量を増やすように伝えます。それは子供でもできます。そしていちばん効果があります。


子供のころ、「深呼吸してー」と大人に言われても、ラジオ体操で掛け声かけられても、よく意味が分からず困惑していたことを思い出します。「深呼吸」と言われても心身が固くなったままでは深呼吸にならないんですね。子供というのはそんなこともわからない。自分の心身が硬直していることだって気づけないです。だから、こうやって具体的に伝えてもらえたら、どんなによかっただろうと思わずにはいられません。



躁鬱人がよく自分とはなにか?と考えるのはなぜか。ズバリ退屈だからです。充実しているときは平穏です。心地いいと感じてます。そのときにはいっさい自分とはなにか?と考えません。平穏なときに考えていることは唯一「次になにをしようか?」ということだけです。


カンダバシは「生活を万華鏡のようにしてください」とありがたいことを言ってくれてます。

「自分とはなにか?」


その答えは、「自分とは「次はなにがしたい?」としか考えない人」です。



躁鬱人のことを坂口さんは「『次はなにがしたい?』としか考えない人」と、若林くん(激レアさん)顔負けのラベリングを披露してくれました。こういうラベリングって気持ちいいです。

自分の性質を、病ではなく、躁鬱人としての特徴のひとつにしかすぎないと確認できるのは、この本の大切なポイントです。


躁鬱人たちは、その悩みを自分固有のものと思い込んでいますが、坂口さんに言わせれば、「どんな人間も悩みは同じである」「人は、人からどう見られているかだけを悩んでいる」だけなんです。これは躁鬱人だけでなく、気分に波がある人たちに共通することかもしれません。心が波立つのはいつもそこに他人の眼差しがあるからなんですね。


数多く描かれる躁鬱人の特徴の中でも最たるものが、以下に書かれていることです。



興味深いのは、そこに「自分がない」ということです。常に評価の基準が他人です。

躁鬱人たちが確認しようとしているのは、自分の周囲で、元気じゃない人はいないかということです。その集団が心地よく構成されているかどうかが気になります。


周りを見て、それぞれの人の気分などを観察することは向いていますが、自分の観察が苦手です。

自分を観察しているのではなく、人と比べて自分が少し変だ、違和感がある、みたいなことを感じることが多いです。


実は自分がどう感じているのかということを問うことはしません。自然とはできません。


自分のことしか考えていないはずなのに、実は自分のことはなにも見えていない。


これ、躁鬱気質の人たちにとっては、あまりに自分ごとではないでしょうか。私自身も、まさにこういう性質(例えば、自分の周囲で、元気じゃない人が一人でもいないかを常に観察してしまうこと)をむしろ子供たちと付き合うときに武器にしてきたのだということ、そして大人と付き合おうとするとすぐに「人と比べて自分が少し変だ、違和感がある」という状況に振り戻されることを感じます。そして、「自分のことが何も見えていない」というのは、そう言われて初めて、確かにそうかもしれない、と気づかされます。(もともとは気づいていない。むしろ自分のことをよく見ていると勘違いしがち。)


このようなさまざまな特徴を踏まえた上で坂口さんはこう言います。



まず心よりも体に注目しましょう。なんせ正確な観察が難しいのであんまりやっているとこんがらがってきます。ですので躁鬱人は心をほうっておきましょう。苦手なんです。自分の精神状態を推し量ることが。


人の気持ちをうまく汲みとれないように、われわれ躁鬱人は自分の気持ちですらうまく汲みとれません。

なぜなら毎度、観察態度が変わってしまうからです。定点観測が不可能なんですね。だから汲みとれないだけです。あなたは人の気持ちがわからないわけではないんです。人の気持ちをわかろうとするあなたが常に変動しているので、そのつど変わるというだけなんです。


この箇所を読んだとき、私はわかりみを超えて、うグググと声が出ました。自分が常に変動しているから定点観測ができない。人の気持ちどころか自分の気持ちさえわからない鈍感な人間なのではなく、自分が常に変わっているから観測に不向きなだけ……。



あなたは荒野にいます。焼け野原です。でも、その代わり自分で自分なりの操縦法を見つけて、一人で自立するのです。ルールはいりません、毎日変わるんですから、ルールも毎日変えましょう。


「焼け野原」というのはなかなか厳しい言葉ですが、日々の辛い実感と坂口さんの柔らかいことばがここで出会い、許されたような気持ちになる人は多いのではないでしょうか。


この本には、躁鬱人が躁鬱人として生きるための具体的な処方箋が多く綴られています。


さっさとその場を立ち去る、「飽きた」と言えることを技術と捉える、多彩な生活をする、移動する、心臓と肺を手当てする、躁状態のときはその力を自分に対してかもしくは人間以外の生物に使う、苦手なことはいっさいしない、限られた理解者を持つ、借金をしない、食事をとる、反省しない、検索しない……。


一つひとつが坂口さんの実感から出たものなので、臓腑に染み入るように処方箋が体になじみます。と同時に、この本自体、レシピのない料理本のようなもので、最終的にはその人自身が直感で動いていくことになるんだろうということも理解できるようになります。



自殺問題は死にたい人の精神的な問題ではなく、徹底的にトイレ問題なのです。言わば、精神衛生面でのインフラの問題です。はっきり言えば、トイレを増やせば、自殺はなくなります。


つまり、僕のやってるいのっちの電話とは、このトイレなんです。


この本のすごいところは、自殺問題を公衆トイレになぞらえて「インフラの問題」と言い切っているところですね。坂口さんはいのっちの電話を通して他人のうんこを食べている変態なのだ、と私は理解しました。これはすごいことですよ。


まさに躁鬱の気質がある人にとって、自分を知ることができる福音のような1冊。

そして、躁鬱人だけでなく、躁鬱という少数民族を知りたいと思っている人たちにもぜひ読んでもらいたいです。





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by terakoyanet | 2021-04-29 21:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)