村井理子『全員悪人』

村井理子さんの『全員悪人』さっき読み始めて、あっとういう間に読み終わった。

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「全員悪人」というタイトルに、狡猾な人間たちどうしの駆け引きが描かれるハードボイルドな小説を想起させられた。

読み終わって、この本は確かにハードボイルドであった。簡潔な文体で過多な感情を交えずにスピーディーに現実を描く」というハードボイルドの定義?にそのまま当てはまるのが村井理子という人が書く文章の魅力だと私は確信している。

でも、タイトルの「全員悪人」という言葉は、予想外にある逆説を含むものだった。あとがきの最後まで読み終わったあとにこのタイトルを読むと、「悪人」というネガティブでしかないこの言葉に愛着さえ覚える自分に驚かされる。

前作の『兄の終い』もそうだが、村井理子という書き手は、矛盾する愛と憎しみを無理に切り分けようとしない。愛憎入りまじった複雑さを、複雑なままに、なんとか噛み砕こうと努力する。そのさまをそのまま私たち読者に見せてくれる。


私ごとだが、昨年出した本『おやときどきこども』の中に「マリアさんからの手紙」を載せた章がある。この箇所は、マリアさんという人間を描くときに、どうしても著者である私が一人称で語っては他者としての彼女の声を再現できないと思ったこと、そして彼女とのやり取りを通して実際に彼女から聞こえた声を再現したい欲求に駆られたこと。そういった考えに突き動かされて、マリアさんの一人称によって私が半ば創作した箇所だ。

しかし、声が聞こえたと言っても他人である。しかもただの他人ではない、自分とは全く別の文法を持って生きているとしか思えない筋金入りの他人(これを私は「他者」と呼んでいる)である。当然、自分がその人のことを「ほんとうに」分かっているかどうかなんて、皆目見当もつかない。

村井さんが描いた認知症の義母も、まさに別の文法で生きている他者である。しかも、フィクションではなく、すぐそばに現実として生きている他者。

この本は、その他者を主人公にしただけでなく、一人称で語らせたのだから、ここにはとてつもない書き手の勇気が潜んでいると思う。その勇気と覚悟が図らずも、この物語を『兄の終い』とは別種の感動を呼び寄せることになった。肝が据わってるなと思う。

うちの親に「ボケる前に、この本読んだ方がいいよ」とこの本を勧めたいと思っているけど、どうだろうか。
それこそ余計なことで、勧めないほうがいいんだろうか。そんなことをグルグルと考えながらこの本を閉じた。


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by terakoyanet | 2021-05-12 15:06 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)