木庭啓介先生による『おやときどきこども』の感想

京都大学教授、木庭啓介先生の『おやときどきこども』の感想がとても素晴らしいので、こちらで紹介させていただきます。



「おやときどきこども」鳥羽和久著を一気に読んだ。震えた。

子供たちにも読んでもらいたいので冊子体にした。耳をおりすぎて本が膨れ上がってしまった。

自分に小さく、たくさんたくさん刺さっているとげが一つ一つぼんやりと見えてきた。早く抜きたいし、またはそんなのとげじゃない、ってごまかしたいけれど、ちょっと立ち止まって、とげをじっと見つめるところから始めようと思う。それをしっかり丁寧に、そして少し気楽に受け入れようと思う。

------------ 以下7/5に追記した部分です ------------------

50を過ぎて本当にいろいろポンコツなのですが、年をとるにつれて「当たり前のことを」「素直に受け入れる」ように言葉を紡ぐ人が、どれだけ希有な存在かということに気づくことが少しずつできるようになりました。そして自分の中になんと無しにとげのように刺さっている、いや、マジで刺さってる?ほんと???と思うような事柄を丁寧に拾い上げて、言語化して、ほら、こうでしょ?と見せてくれることができる人がたくさんいるということにも気づくことができるようになってきました。これだけでも年を取るって悪くないんじゃない?とおもえることだったりするのです。いろいろな人の言葉が受け取れるように自分のレセプターが育ってきたと言うことなのかもしれませんが、とにかく有り難いことです。

今回鳥羽和久さんの、流れるような、それでいて常に熱が、力が、しっかりと丁寧にこもっている(これはとても難しいことだと思うのです。特にしっかりと、そして丁寧にというところが。)文章に触れるきっかけを与えてくれたのは、ここから始まる一連の(今や有名な)ツイートでした。

鳥羽和久 KAZUHISA TOBA on Twitter: "小学校で哲学の授業をした際に痛感したのは、小学生に下手に議論をさせたところで、手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競うようなものにしかならないということ。行きつく先はいかにも社会適応的で常識的な議論だ。こういう議論の練習をしたところで早期の「つまらない大人化」を進めるだけだ"

一連のツイートの中にある言葉たちを読んで、あまりにも的確でありながら、そこに対する根本的に優しい視線を感じて、別の言い方をすれば、"we"とか「私たち」という相手を阻害しない主語が常にあるのを感じて、大変感動したのでした。かみさんにshareして、家に帰って「こんな風に言語化できるのは、それだけ向き合ってきた人だからだろうね」とか「とても素直に受け入れられる、身体に入ってくる言葉だけれど、だからといってそう簡単には、こんな洗練された言葉の流れにはならないのではないかしら」などと話しながら、うちの家では「規範性」という新しい軸をもらえたのでした。

「規範性」の力は絶大です。自分で自分の好みをとことん考えなさい、と伝えても、圧倒的な力に毎日押し戻されてしまいます。それを見ながら、あれこれ毎日話して、何とかしようと努力しているつもりでいたのですが、根本的に自分たちこそが押し戻されていること、その事実から目をそらしてしまっているよね、端的に言えばあるがままというように状況を見ることができていないよね、と、「おやときどきこども」を二人で読みながら大反省したのでした。自分がまさに規範性の奴隷になってます(M省とかね、、、)。

特にこの頃、自分が他人と向き合うときに、うまく自分の考えが伝わらないことがよくあって、それは成功体験などのために自分の考えが凝り固まっていることで、うまく伝わらないのだ、伝えるための努力が足りないのだ、と思って悩んでいます。ただ一方で、相手のことを勝手に想像してみるに、「規範性の高さ」を常に意識している結果「判断の軸が常に自分の外にある」状態で、そんな相手に、「判断の軸を自分にしてください」とか「じぶんごととして考えてください」、と伝えようとして、結局すれ違ってしまっている、というように整理してみたのです。そうするとちょっと相手を見つめやすくなるなと正直思ったのです。とても頑張っている。本当に大変なくらい頑張っている。のだけれど、最後の最後で、なんというか逃げられちゃう。言葉の主語が、責任の所在が明確ではないからどうしても言葉が上滑りしがちになる。自分が、という主語にならなくて、いつもどこかに誰か別のひとが、別の目がある感じ。そしてその自分の外にある軸による束縛がとても強いから、何かがあると、その軸を守るために「罰を与える」という概念が首をもたげる、、、、結果の一つの表現型として、いつまで経っても「仲間」が形成されない、、、、そんなことが想像され、自分自身も全くそこから無縁ではないのですけれども、そんな感じがこのところの学生さんの間にあったりしませんか?、、と先日カウンセラーの先生ともお話ししたところでした。その中で、ならば「規範性」という軸で一緒に整理してみることで、どう足掻いていいかわからなくなっている学生さんに少しヒントを与えられるかもしれません、という話ができたのは自分でも大変うれしい経験でした。

「教育」とは待つことだ、というのを勝手に理念と思い込んでだいぶ経ちました。ただ、この本を読んで、この「待つ」という言葉をもっと力を込めなければならないと思ったのです。「積極的に待つ」とか「意味を持って意思を持って待つ」というような言葉でこれまで濁してきましたが、それをもう一段階二段階、研ぎ澄まして行かなければならないと思うようになりました。「いまをしっかりと見る」とか「ありのままをみる」とか言葉はいくつか浮かんできますが、まだ借りてきた言葉でしかなくて、とても軽い響きしか持っていません。答えは当分出ないでしょうし、目の前の人、そして自分に対しても、時々刻々変わってゆく多様性の高い答えであるはずです。そこから根源的な言葉を導くにはまだ自分は真剣な時間がたりません。そうそう簡単に「成果」が得られるわけではない目標、実は定まってすらいない目標に対して、実直に努力を続けてゆくことを、知的持久力と学生さんにいっていますけれど、自分にまさにこの知的持久力が求められています。さまざまな相手に対して、どういう言葉を選んで、行動をおこなって、自分たちのよりよい姿に少しでも近づけるか、そもそもよりよい姿とは何なのか、きちんと考え続け、疑い続けられるか、そこの持久力がついているとしたら、その一部はまたもや年を取ったことに起因すると思います。年をとるって悪くないんだよ、と若者の皆さんにきちんと言えるようにもがかないといけません。そのもがくときの大事なテキストとしてこの本はあります。




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by terakoyanet | 2021-07-10 09:31 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)