川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)を読んで

「荒野なんだよ! けんちゃんとアートを見るっていうのはさ、要するにみんなで荒野に行くようなもんだよね!」

川内有緒という人は「私、生まれ変わったら冒険家になりたいんですよ!」(『空をゆく巨人』開高健ノンフィクション賞受賞)と自ら言うだけあって、彼女の手にかかると、あらゆる事象が冒険譚になってしまう。(これまでの作品も「全部」そうだ。そしてこの本もやっぱりコロナ禍という「動けない」時代にそれでもいかに冒険するか?という物語として読める。)もう、根っからの冒険狂いなんだろうと思う。

冒頭文の「けんちゃん」とはこの物語の主人公、白鳥建二(しらとり・けんじ)さんのこと。彼女とその仲間たちは全盲の白鳥さんとさまざまな場所にアートを見にいく。読者は当然、全盲(=目が見えない)の人とアートを見にいくっていったいどういうこと? と疑問に思うわけだが、その答えはそのひとがそのひとのままで作品を見る、そして見たものをそばにいる白鳥さんに話す、それだけのシンプルなことだ。

白鳥さんといっしょに美術館に行って、作品を見たままに話す。たったそれだけのことで「見る」が変容する。絵の解析度が上がったと感じるし、いかに日ごろ自分が「見ていないか」を痛感する。

こうして「見る」ことが揺さぶられ、変容することで初めて、アートが空白だらけのわたしの内側に侵入してくる。そして、「私には決して触れることのできぬ過程によって、私の固有性を開こうとする」(平倉圭『かたちは思考する』)のだ。その差し抜きならない場面がこの本における「荒野」であり、白鳥さんとその仲間たちは「荒野」を求めるとめどない渇望にどこまでも正直な人たちだ。

知らない世界に行くときってちょっと怖い。でも、その怖さとワクワクはセットなんだ。そう考えると、不確かさがないところにワクワクはないのかな。

自分の安全地帯を抜け出して、自らの手足で世界をまさぐりながら、わたしたちはこの世でただ唯一の「自分」という生を獲得していく。


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その他、白鳥さんと関わることで、「障害」に対するステレオタイプな認識が次々と剥がれていくようすが活写されているのもこの本の魅力である。

特に、白鳥さんの友達、ホシノさんが全身全霊でノーマライゼーション社会の欺瞞を告発する場面は、熱いものがこみ上げる。(私が先月ちくまwebの連載で書いた文章「差別があるままに他者と交わる世界に生きている」http://www.webchikuma.jp/articles/-/2521 をホシノさんだったらどう読んでくれるだろうかと、私事ながら考えずにはいられなかった。)

そして、白鳥さんとその仲間たちは、お互いに巻き込み、巻き込まれながら、障害をはるかに越えて、死について、夢について語りだす。

わたしたちは、白鳥さんの見えない目を通じて、普段は見えないもの、一瞬で消えゆくものを多く発見した。流れ続ける時間、揺らぎ続ける記憶、死の瞬間、差別や優生思想、歴史から消された声、仏像のまなざし、忘却する夢――。


アートに出会って「楽になった」と言い、そして、美術でなく「美術館」が好きだと語る白鳥さんは、まるで「美術館」という新しい身体を手に入れたひとのようだ。いや、白鳥さんを介して「美術館」が新たな身体を宿したといったほうが正確だろう。

命の鼓動がこだまする「美術館」であればこそ、白鳥さんと仲間たちは、千手観音の「あまねく見る」視点に照射される。この視点は、いつの間にか必要な情報だけを取捨選択してしまう私たちの視点からは全く敷衍できるものではないし、そしてそういった「あまねく見る」ことのヒントが白鳥さんのアートを「見る」営みの中にあったのだ。

そのことに不意に気づかされたとき、この本の1章に掲げられた芸術とは普遍的な言語である(ダンカン・フィリップス)という言葉が新たな息吹を得て私たちに迫ってくる。芸術を通して「あまねく見る」手がかりを触知するふるまいが、芸術を普遍的な言語たらしめる。そのことが朧気ながら示されるのだ。


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最後に私がごく個人的にこの本に描かれた白鳥さんのどこに心を動かされたか、その根っこの部分についてお話ししたいと思う。

(この本の著者は白鳥さんが言わんとすること、そしてわたしが言っていることは、似ているようで、実は土星と梅干しくらいかけ離れているかもしれなかった。結局のところ、わたしは白鳥さんというひとの世界をどこまで理解できているのだろう。と言っていて、実際にふたりの会話が噛み合ってない場面もある。それなのに、ときに著者の「理解」を飛び越えてダイレクトに白鳥さんの魅力が読者に伝わってしまうのが、この本の面白さだ。その意味での面白さを猛烈に感じた箇所を1つ挙げたい。それは、白鳥さんの「時間」に対する認識が描かれた場面だ。)


著者のこの先医療が発展して、手術とかであなたの目が見えるようになりますって言われたら、見えるようになりたいですかというやや際どい質問に対して、白鳥さんはこう答える。

俺はなりたくないね。小さいころから目が見えないままでやってきて、いまさら見えるようになったら余計大変じゃないかな!

見えたらいいこともあるんだろうけど、どうせ見えるようになるんだったら子どものころからやり直させてほしいな。でも、いまから見えるようになるよ、それ選べるよって言われたら、いや、どうしようかなあ。もう選ばないんじゃないかな。


私はこの箇所を読んだときに思わずため息をついた。これは決して彼特有の「強がり」なんかではない。白鳥さんは心底知っているのだ。時間の不可逆性という真理を。そして自分の欲望を飼いならすには、相応の時間が必要だということを。

白鳥さんは別の場面で言う。人間は多くのものと闘えるけれど、時を相手には闘えないと。

私たちは、自分の生が「こうでしかありえなかった」という不可逆性に突き当たったときに「時を相手には闘えない」と感じる。「こうでしかありえなかった」というのは、別の言い方をすれば、「わたしはこのようなやり方でしか、自分の欲望と向き合うことはできなかった」ということである。

白鳥さんがどうせ見えるようになるんだったら子どものころからやり直させてほしいなと言っているのはまさに時間性の問題であり、すでに厚みを帯びた人生をやり直すことはできないということ、つまり、いまから視力を得られるとして、結果として迫られるであろう欲望の布置の改変に、おそらく自分は耐えられないだろうという予感である。

私はこの場面に白鳥さんという人間の深淵を見た気がした。もし、見当はずれだったら許してほしいが、こうやって、人間の深みについて話すための素材が、この本には星のように散りばめられている。


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いよいよ今週末、10月2日に、川内有緒さんとトークをします。
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』が気になる方はぜひお越しください。
そして、私の上の文章の意味がちょっと分からない人は、その謎ときにお越しください。
座席は残り数名ですから、お見逃しありませんように。

学生たちに熱く読んでほしい!川内イオさんの本についても近日中にご紹介します。


by terakoyanet | 2021-09-30 02:33 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)