障害者とは何か

深夜の地元番組「ドォーモ」ではたまに「見えない生活」というコーナーがある。重度の視覚障害を持つ女の子が、いかに自分の障害にうまく対処し、逞しく元気に生活しているかをレポートしたものだ。このコーナーでいろいろ考えさせられる人も多いだろう。元気づけられたり勇気づけられたりする人も多いだろう。私も彼女すごいなあと思って見ている。

でもわたしがこの番組で気になるのは、番組制作側の決定的な鈍感さである。そしてそこは世間一般に通底する鈍感さを感じる。

この女の子がすごいのは「見えない」のに料理が作れるから、「見えない」のに買い物ができるからである。このコーナーは、「見えないのに」の枕詞がないと視聴者に何も訴えることができない。それを自ら露呈するかのように、このコーナーのタイトルは「見えない生活」である。

この番組で結局言っていることは「見えない」のに健常者とこれだけ同じことができますよ、すごいですね、ということである。わたしはこんなこと言っていたら、いつまでたっても障害者の方への偏見などはとっぱらうことはできないだろうと思う。だって、この「見えないのに」の視線は、あくまでも健常者と障害者という線引きをした健常者側から向けられており、しかも障害者の方が健常者と同じ性質を示すときに「すごい」と言われるようでは、最初から健常者側が「俺のほうが上ですから」ってことを前提してるということにもなりかねないのだ。

もちろん健常者側にそんなつもりも悪意もない。番組制作側にもそんなつもりはさらさらない。それはわかっている。でも、だからこそ、問題なのだ。これは、以前、乙武さんの「五体不満足」がはやったときにもとっても気になった問題だ。乙武さんへの数多くの激励と賛辞は、ときに彼を決定的に傷つけはしなかっただろうかと考えてしまう。

番組の女の子も乙武さんも才能がある。人に魅せるものを持っている。しかし、世には人に魅せるものをもっていない(ようにみえる)人だってたくさんいるのだ。
わたしはこころから思うのだが、人に魅せるものなんて持っていなくてもいいのだ。日々をなんとか生きている、それで十分だ。

日々をなんとか生きているだけでは、つらい。そう、つらいだろうと思う。そこは踏ん張りどころだ。でも、踏ん張れないからといって、メジャー志向に走っては、メジャーの運動に巻き込まれるだけだ。だから、マイノリティーの人たちはなんとかかんとか踏ん張ってほしいと思う。

日々の塾の指導のなかで、わたしが一番気になるのは、教室内に数人だけいる、その場に居辛そうな子たちである。わたしは絶対にそういう子たちの一番の味方になりたいと切に思っている。

これは余談だが、数年前から、障害者を「障がい者」と表記する動きがある。(中学の公民教科書でもそうだ。) 「害」という漢字はイメージ悪いからだと思うし、これを最初にひらがなにしたほうがいいと思った人の心情を察することはできる。でも、教科書に載ったりして、この表記自体が市民権を得てしまったらなんか違うなあという感じがするのだ。この違和感は、これまでわたしが話したこととっても関係がある気がする。
by terakoyanet | 2007-06-26 11:12 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)