裁判官の独立、マスメディア、法、良心
2007年 11月 07日
憲法第76条には、「すべて裁判官は、その良心に従い、独立してその職務を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」とある。この条文のなかの「独立して」というのは、誰の意見に左右されることもなく、といった意味だと思うが、今日の判決を聞いていて、今回のようなマスコミで大きく取り上げられ、世論にさまざまなうねりを起こした事件に対して、果たして裁判官が「独立」した判決を行えるのだろうかという疑問を持った。もし、この事件に軽い判決を与えた場合、「不当判決」として、批判的に大きく報じられることは確実である。そのような世論的圧力に対して、裁判官と裁判所は耐性を持ちえるのだろうか、という疑問を禁じえないのである。
もちろん、被害者の心情は察してあまるものがある。どんなに被告に厳しい判決がでても、起こってしまった事実を消すことはできないのだから、救われることはないのだ。被害者の方々が極刑を願うことを、どうこう言うことはできない。
しかし、私たちはもう少し、人を裁くということについて、もっとクリアな頭で考えたほうがいい。
裁判官は自らの「良心」に従うこととなっているが、この「良心」というものは、感情的なもの、ごく主観的なものというわけにはいかないだろう。もしそんな感情的なものの正当性が認められるのであれば、良心に従っても両親にしたがっても大差なくなってしまう。
今日、あるニュースのキャスターが、今回のことを「被害者感情を汲んだ判決」であり、真っ当だと言っていたが、わたしは「被害者感情を汲んだ判決」=「正解」とはなりえないであろうと思う。(もちろん、被害者感情を汲んだ判決が結果的に正解だったということはありえると思うが。)
私はいわゆる論理的思考や科学的理論等も、見方によっては、すべてが人間の「感情」から出てきたものであり、すべての論理(理論)はある意味で「論理的な感情」にすぎないと思っている。もし「法」が、論理のひとつの形式だとすれば、「法」も所詮は「論理的な感情」の一形式ということになると思う。
しかし、私はそのような「法」に対して一定の敬意を払うべきだと考えている。人間はとことん感情的な生き物だ。さまざまな論理は、人間の傲慢な感情によって紡ぎ出されたものだ。しかし一方で、「法」には、人間の良心というものが垣間見れる。感情的な人間が己を知り、これではあぶない、論理をたくましくせねばならないと考えたときに生まれるのが「法」なのではないかと思うのだ。「法」はその意味で、純粋な論理の形式をおびる可能性があるものだと私は思っている。
裁判官の「良心」が、主観的・感情的なものとは本来別の志向性を持つものであるとすれば、マスメディアや世論の圧力というのは、裁判官の独立という原則にとって、最も脅威になるものだと思う。裁判官側が「被害者感情を汲んだ判決」を持ち上げるマスメディアを批判することは難しいはずである。
現在、国民参加型の裁判員制度の導入準備が進められているが、この新たな裁判制度によって、ますます世論と感情に毒された裁判が進んでいってしまうような気がして、とてもそれは恐ろしいことだと思う。そうすると、本来の「法」の意思から、司法そのものがどんどん離れていってしまい、それこそ「良心」が失われてしまうことになるのではないかと私は強い危惧を持っている。
私も裁判員制度はそうなのかなと思っている1人です。
何かあの制度は日本人には向かない気がします。
興味本位で人を裁く可能性は決して0とは言えません。
考えたら、恐ろしいことです。
一応、数人の中から面接等で適切なる人物を選ぶそうですが、
元々集める人たちがアットランダムなので、公平な裁判ができない
のではないかと思ったりします。
良心とは非常に抽象的な言葉で特に裁判などの中ではどう定義し
てよいのか分かりませんよね。
良心が一括りにできないというのは寂しいことですね。
「元々集める人たちがアットランダムなので、公平な裁判ができないのではないか」というのは私もそうかもしれないと思います。
唐突に裁判員に選ばれた人たちが、他人を裁くということは恐ろしい気がしてなりません。適切なる人物を選ぶということですが、そこで裁判所の意思から大きくはずれない人が選ばれるとすれば、それはそれで、この裁判院制度の意図がわからなくなります。
良心というのはほんとわかりにくいですね。私自身は、自分自身の心の中の良心というよりは、自分が法に対して真剣に耳を澄ましたときにかすかに聞こえてくる呼びかけの声というイメージです。さらに抽象的なものにしてしまいましたが。