猿芝居
2007年 12月 04日
「猿芝居」と言っても、その小論では、政治家たちがよくやっているような、すぐ見透かされるバカな芝居のことではなく、実際に「金色夜叉」の芝居を猿がやっているのを見たときのおかしさについて書かれている。
著者が「猿芝居」を見たときに感じた「おかしさ」とは、本来は人間がやるべき芝居を猿がやっているという馬鹿馬鹿しいおかしさよりもさらに少し奥行きがあったという。著者がここで感じた「おかしさ」とは、「猿のやる芝居もどき」を「笑い」ながら、同時に、「人間」と、「人間が芝居をするという習性」そのものが「笑われている」という二重の体験から来るものであったという。
著者がここで言っているのは、「猿芝居」を見ることで、「ほら、お前もたったいま猿芝居をやってんだよ」というちょっとおぞましいような現実がふと我に返ってくるということだと思う。これは犬芝居や馬芝居ではちょっと無理で、人間に近い猿の芝居だからこそ、それが我ごとのように返ってくると著者は言っている。
著者はそのあと人間から遠い原人猿はペット用に適しているが、人間にほど近く頭脳が発達した類人猿はペットとして飼うことが難しいと言っている。原人猿の目はガラス玉のように無垢でわたしたちはそれをかわいい対象物として扱うことができるが、類人猿の目は人間に近すぎるのだ。類人猿の目を私たちが見つめるとき、私たちは何かを見透かされているような気がして、そう、まさに自分が猿芝居を打っているような気がして不安になるのだ。私というものに対する根本的な不安がそこで現れ、わたしたちはやり切れない思いになるのだ。
こういう不安はときにわたしも感じることがある。子どもたちにいろんなことを教える。人生で大切なことを子どもたちに一生懸命伝えようとする。でも突然ふいに横槍が入る。お前何やってんの?と。自分がやってることの意味がわかってんのか?という声が聞こえる。
この類いの不安というのはきっとこれからもなくならないと思うが、私は、子どもに何かを教える人間は、いつもこのような揺り戻し(自分自身への問い)がなくなってしまっては、ただ、上から大義名分を押しつけるだけで子どもの心に何も与えない者になってしまうと思っている。
今日教える国語のこの文章はきっと中学生たちには難しいだろうなと思う。でも何か子どもたちの心に残るものになり、またそれが子どもたちの深みのある国語力への導きになればと思います。
とても面白い記事ですね。感受性の鋭さが文章にびんびんでていますよ。
子供の目、私も本当に怖く見えるときがあるのですよ。
terakoyaさんも、きっと歳を取れば取るほど怖くなりますよ。
だから逆に年寄りの目は柔和になるのだと私は思っています。
子供にたくさんのめり込んでいること、よくわかりました。
歳を取れば取るほど怖くなる・・・というのは想像しただけで怖くなってしまいます。でも私もとよ爺さんのように、穏やかさと熱さを持ち続けることができればと思っています。
親子で読んでみていただければと思います。